ポンポンから和田誠

群馬県立舘林美術館を訪れた。先月念願だった静岡県立芹沢銈介美術館を訪れたが、こちらもむかしから訪れたかった施設のひとつだった。村野藤吾賞を受賞した建築と、フランソワ・ポンポンの作品や再現されたアトリエを観てみたかった。
今度もJR東海ツアーズを利用した。せっかく上京するのだから、1泊して日本民藝館や松涛美術館、石元泰博さんの写真展なども含めてゆっくり巡りたかったが、都合のよいプランが埋まっていたのでやむなく日帰りに。おかげで4か所を駆け足で巡ることになってしまった。
はじめは群馬県立館林美術館へ。品川で新幹線を降りて上野東京ラインに乗り、上野で地下鉄に乗り換えて北千住から特急りょうもうに乗ったが、いまや東京での移動はナビゲーションアプリがなければ心もとなくなった。ホームの行先表示器を見ても相互乗り入れだらけで困惑する。最後に乗った山手線では、海老名行きの紺色の列車が並走していて唖然とした。

美術館では企画展『大下藤次郎と水絵の系譜』を開催していた。作品を観たことがなく、水彩画を世に広めた方ということしか知らなかったので、よい機会となった。
22歳で絵を学ぶことを決意し、42歳で亡くなったそうだが、精力的に写生へ出かけて技術を磨き、多くの素晴らしい風景を描き残した。一方で『水彩画の栞』の刊行や雑誌『みずゑ』の創刊、各地で講習会を開いて水彩画の普及に尽力。なんて勤勉な方なのだろうと胸が震えた。

建築もとても素晴らしかった。大芸大の入試でこっそり芸術情報センターに入り、コンクリートの壁に落ちる天窓の光に感動を覚えたが、そのときの感慨がよみがえった。高橋先生がいつもおっしゃっていた『大胆で、繊細で、美しい建築』だった。
第一工房のウェブサイトに書かれていた言葉。「建築をつくるということは、社会に対して大きな責任を負うこと。何故なら永い時間にわたる社会との様々な関わりを通じて、その社会に影響を与え続けるものだから。真に建築であるためには、その存在そのものが、すべての用を超えて人々にとって様々な意味を持ち、更に時代を超えて人に何事かを語り続けることが大切」

別館のポンポン棟。アトリエは写真をもとに造られているが、建物は資料がないので、生まれ故郷のブルゴーニュ地方にある納屋を模しているとか。ポンポンについて無知だったのでいろいろ知りたかったが、人となりについての展示は少なかった。動物シリーズは最晩年に作られ、それまではロダンの助手などをしていたそうなので、紹介できる資料はあまりないのだろうか。
展示作品も想像より少なかった。玄関ホールの大鹿には近づけたが、アトリエの棚に置かれた小品は遠くてよく見えなかった。一方下弦の月の形をした展示室には、白熊や黒豹などの動物シリーズや、デビュー作だというレ・ミゼラブルのコゼットが展示されていて、これらは目近に観ることができた。白熊はよく見ると筋肉の隆起などが表現されていて、単純にデフォルメしただけではないことが知れてよかった。

都内へ戻り、東陽町で『フィリップ・ワイズベッカーが見た日本』展。会場は竹中工務店東京本店のビルにあるギャラリーエークワッド。

展覧会は竹中大工道具館のシンボルビジュアルに起用して以来の宿願だったそうで、小ぶりながら出来のよい図録や数々の映像とともに、気の入った展覧会となっていた。
映像は彼のアトリエで撮影されていたが、家具什器や仕事道具など、アトリエにある物すべてが垂涎の的だった。たくさんの引き出しのついたビューロ―が素敵だった。
YouTubeで公開されているワイズベッカーさん、CLASKAの大熊さん、竹中大工道具館の西村さんの鼎談は、お話しはもちろんだがお三方の佇まいやファッションも楽しめて、西村さんの柔らかい物腰やジェントルな着こなしに好感を覚える。

東京駅へ移動し、東京ステーションギャラリーで『もうひとつの江戸絵画 大津絵』展。
大津絵は日本民藝館や大阪日本民芸館で何点か観ただけなので、あんなにたくさんの作品を観ることができて幸せだった。描くものは限られているが、絵師によって出来が異なり、上手でも下手でもそれぞれに味わいがあった。土産物として売られていた大津絵の楽しみ方だと思う。
この展示のもうひとつの魅力は、キャプションに旧所蔵者が書かれていたこと。柳宗悦や北大路魯山人、梅原龍三郎などの多くの人が大津絵の虜になっていたことが知れて面白かった。

最後は渋谷PARCOにあるほぼ日曜日で『和田誠さんと。』展。エレベーターを降りると五十嵐威暢さんがデザインしたオリジナルロゴ。懐かしい。内装はうるさいのでモノクロに。

先日発売された『表紙はうたう 完全版』を記念しての展覧会だそうで、『エアメール・スペシャル』をはじめとする原画の数々、ほぼ日のコンテンツに登場した袋文字のメモ、制作風景の貴重な映像など、コンパクトながら見ごたえのある展示だった。安西水丸さんが亡くなったときの追悼カバーのことを知らず、見た途端にこみ上げてしまった。