法隆寺の仏生会に参加した。釈迦の誕生を祝う法会で、毎年4月8日に行われている。
会場は国宝食堂(じきどう)。法隆寺に国宝建造物は18件あるが、全体を見通せない建物がいくつかある。食堂も囲いの中にあり、正面は遠く、側面や裏面は築地塀や生垣の隙間から覗くしかない。でもこの日だけは囲いの中へ入ることができる。建物へ近づけるだけでなく堂内へ入ることができる。横しまな参加理由だったが、正しく参拝したのでお許しいただけるだろう。
斑鳩町の空。天気予報は晴れだったのに、いつ降り出してもおかしくない空。
境内に着くなり降り出したが、にわか雨のようだったので休憩所で待つことに。この休憩所は勝手に19件目の国宝建造物に指定している。ベンチは附。朴訥としたつくりが素敵。
雨がほぼ止んだので食堂へ。いつもは閉じられている門扉が開いていた。過去の映像や画像では、通路両側に植えられた桜が満開なのだが、今年は早かったのですっかり葉桜だった。
手前の吹きさらしの建物は細殿で、朱の扉が見える奥の建物が食堂。2棟合わせて『法隆寺食堂及び細殿』として国宝指定されている。左端に映っているのは満開の八重桜。
文化庁データベースにある詳細解説によれば、食堂は政所だった建物を平安時代初めに改造したもので、細殿と屋内を一続きにした双堂(ならびどう)として使われていたが、鎌倉時代後期に細殿が現在の姿へ建て替えられたので、食堂の正面も改められたとのこと。
細殿。食堂の棟木は叉首(さす)で受けているが、こちらは板蟇股。大ぶりの造形が美しい。
妻側の二重虹梁。棟木を受ける斗の下には板蟇股があるが、虹梁を受けるのは斗のみ。
組物は舟肘木。木鼻は禅宗様。貫を固める楔が登場したのは鎌倉時代だそうだ。
細殿より食堂の正面を見る。正対すると罰が当たると思い、端から仰いで撮影。
中央の扉から食堂へ入ると、正面に須弥壇と薬師如来坐像が安置されていた。食堂はいのちを頂く場所なので、供養のための仏様を安置しているということだろうか。そして須弥壇の手前にこの日の設え。錦が掛けられた台の上に、色とりどりの花に囲まれた誕生釈迦仏立像。壺に入った甘茶を柄杓ですくい、お釈迦様の頭上から流しかけた。
曇天のせいで堂内が暗かったので、花もお釈迦様も表情が暗く、お祝いの場という雰囲気は希薄だった。来るのが遅かったからか、そもそもなかったのか、散華の配布もなかった。
食堂の軒丸瓦は法隆寺銘、細殿は連珠三つ巴だった。法隆寺の軒丸瓦は多種多様で、金堂や五重塔は複弁八葉蓮華、徳川家の三つ葉葵や、桂昌院の実家本庄家の九つ目結もある。
国宝網封蔵(こうふうぞう)。普段は大宝蔵院参拝の折、生垣向こうの通路から観ることができるが、こちらからだと足元から屋根まで見通すことができる。
大湯屋の前にある結界。通るたびに何だろうと思うが、すぐに調べないので忘れてしまう。
作務衣姿の方が歩いて来られたのでたずねると、地中に宝物が埋められているそうだ。仏語で伏蔵(ふくぞう)と言うそうで、寺に何かあった時に開けるようにと伝えられているとか。
西大門をくぐりそのまま西へ歩き、藤ノ木古墳へ向かった。初めての藤ノ木古墳だった。
1985年、1988年、2000年、2003年に計5回の発掘調査を行った後、2008年に現在の姿へ整備されたそうだが、現在もきれいに保たれていた。丁度お日様が出てきたので気持ちがよかった。
でも周囲は残念な光景が広がっていた。農地の中にミニ開発の宅地が虫食い状に点在していた。南側は道路を挟んでいたので和らいで見えたが、北側は隣接していたので異様に見えた。
国はすべての遺物を収めたのだから、代わりに古墳周囲の土地を広く買い上げ、明日香村のような公園を整備すればよかった。そうすればより魅力的な場所となっただろうに。
墓道を進むと鉄扉があり、古墳の中へ入ることはできなかったが、扉にはガラス窓がついていて、近づくとセンサーが反応し、玄室が一定時間灯るようになっていた。
玄室に見える刳抜式家形石棺。朱色が残っている。実物が保存されているようだ。
羨道(せんどう)のブリッジは床が荒らされないようにするためだろうか。それともバリアフリーのためだろうか。扉に貼られた説明書きの末尾に、春と秋に公開すると書いてあった。調べると、来月13日と14日に公開されるそうで、来週末より申し込みを受けつけるそうだ。
もう1つの見学手段として、斑鳩町へのふるさと納税があるようだ。夏場以外ならいつでも見学でき、寄付金額は8万円と5万円の2コース。違いは参加可能人数とおまけの有無。
保全のための寄付と考えればよいのだが、おまけの茶碗や色紙、法隆寺と中宮寺の拝観券はいらない。古墳の見学お1人様いくら、だけでは商品として魅力がないのだろうか。
古墳の脇に小さな花が咲いていた。ヒメオドリコソウだそうだ。『ハナノナ』を利用しているが、今度は正解だった。うちの近くに花桃が咲いているが、何度試しても梅としか答えない。
近くにあるガイダンス施設『斑鳩文化財センター』。リーフレットには正式名称『斑鳩町文化財活用センター』との2段書き。その程度なら正式名称一本でよかったのではないか。
それにしても石棺の赤が毒々しいが、これで正しいのだろうか。褪せているのだろうか。
古墳を広く整備していれば、この施設もそちらに建てることができただろう。そうすれば道を間違えることはなかった。古墳にあった案内図と距離感が合わず、行き過ぎてしまった。
石棺の複製。後からつくられたのだろうか。壁際で窮屈そうにしていた。
石棺内部。発見時の状態が再現されているようだが、2方向からしか覗きこめないのでもったいない。映像ホールからガラス窓越しに覗くことができるが、距離があるので手前が見えない。
それにしても盗掘されずによく残った。古墳に設置の説明板では、法隆寺に伝わる平安時代の文書に、古墳の傍には宝積寺と呼ばれた堂宇があったそうなので、そこの僧侶が墓守をしていたのではないか。玄室にあった江戸時代の土師器は灯明皿として使用されていたそうなので、日常的に玄室へ出入りし、被葬者供養の祭祀が行われていたのではないかとのこと。
金銅製履(くつ)の複製。実物は橿原考古学研究所に保管されているようだが、昨年研究員が触れてしまい、3cmだった亀裂が8cmへ拡大し、12cmの亀裂が新たにできてしまったとか。
金銅製鞍金具(後輪)の複製。鞍の前後に設置されていたもので、これは後方のものだそうだ。
金銅製馬具は他の種類も見つかっているが、この金具は当時の東アジアにおいて類をみない一品だそうで、発見当時は一大センセーションを巻き起こしたのだとか。
遺物は『奈良県藤ノ木古墳出土品』として、ひとまとめ国宝に指定されているようだ。