橿原神宮と明日香村

明日香村再訪は橿原神宮からスタート。境内にある文華殿と呼ばれる建物が現在修理中だそうだが、5/8まで見学できるそうなので、はじめての橿原神宮参拝を兼ねて訪れた。
前回明日香村を徒歩で回って時間が足りなかったので、今回は自転車を借りた。時間が余れば藤原京や今井町へ行きたかったので、飛鳥駅でなく橿原神宮前駅で借りた。自転車に乗るのは10数年ぶりだったが、なんだか下手になっていた。筋肉の衰えもあるのだろうか。

豪壮な外拝殿。できたのは1939(昭和14)年とまだ若い。橿原神宮の創建も1890(明治23)年だそうなので、まだ130年しか経っていない。民の請願により明治天皇がつくったそうだ。どの部分を担当したのかわからないが、設計には伊東忠太が関わっているそうだ。
イベントは『祈りの回廊』というウェブサイトで知ったのだが、特に記載がなかったので、見学は随時行うことができて無料だと思っていた。でも文華殿に着くとテントに人はおらず、工事用ヘルメットが並んでいるだけ。橿原神宮へ電話をし、外拝殿に受付があるというので赴くと、見学時間が定められていて、所要時間は1時間、初穂料2,000円ということだった。
せっかくなので参加した。まずは御幣をお供えするということで、通常入れない外拝殿の内へ。本来は内拝殿で行うそうだが、結婚式と被ってしまい、少し手前の広場でお供え。でも婚礼まで少し時間があると言って内拝殿へ案内してくれた。廻廊を通って外拝殿へ戻った。
文華殿へ向かう途中、鳥居がきれいだったので聞いてみると、2019年に改修されたばかりだそうだ。よく見ると、笠木、島木、額束は古材が再利用されていたが、気にならなかった。

ヘルメットをかぶり素屋根の中へ。瓦はすべて下ろされ、下地の杉皮が現れていた。この下地の状態を土居葺というそうだが知らなかった。瓦は見える部分は本瓦葺き、見えない部分は桟瓦葺きと葺き分けられているとか。素屋根のトラスが美しかった。

文華殿は元々天理市にあった旧織田屋形で、昭和41年に大書院と玄関を移築したそうだ。移築する前は小学校の校舎として使われていたそうだが、どのように使われていたのか気になる。
見学のあとは神武天皇陵を参拝。さすがは初代天皇、つくりが余所とは異なっていた。普通は1つだけの鳥居が3つあり、一の鳥居と二の鳥居には背の高い木製門扉がついていた。2つの鳥居の間には金属製の門扉がついていたが、桟はいつものバツ印ではなく縦桟。一の鳥居の門扉の上のほうがバツ印になっていた。材質やサイズが異なっても、最も手前の門扉はバツ印。何か意味があるのだろうか。単なる様式だろうか。ネットを検索してもヒットしない。
参拝のあとは、すぐそばにある奈良県立橿原考古学研究所附属博物館へ。

飛鳥宮の模型を見たかった。前回飛鳥宮跡を訪れたとき、一部しか整備されておらず全体をつかめなかった。ネットで図を見てもピンと来なかったので、ここなら模型があるだろうと。

様々な埋蔵品が展示されていたが、気に入ったのはこのコーナー。飾り馬の埴輪は知っているが、ほかにもいろんな動物がいた。そして飾り馬の埴輪はとても大きかった。

土産は『ASUKA BOOK』。ネットを検索してもさっぱり出てこなかったが、おそらくコクヨの野帳の特注品。カバーのイラストは飛鳥宮、インクはメタリックブルーと凝っている。
次は明日香村。最も遠いキトラ古墳から。徒歩だと1時間かかるが、自転車だと20分もかからなかった。でも古墳手前の上りはきつく、最後は自転車を降りた。情けない。

キトラ古墳は思いのほか小さかった。高松塚古墳と同じ二段式の円墳だが、直径が9m小さいそうだ。石室の壁画や出土品の保存管理を兼ねた展示施設があったが、2016年にオープンしたそうなので、展示のための設備が最新で、なかなか充実した展示内容だった。

隣接する展望台からの眺め。辺り一帯まで整備されていて、とても気持ちのよい場所だった。
上が鬼の雪隠、下が鬼の爼(まないた)。元々ひとつの石室だったそうだが、現在は丘の頂と麓で離れている。地震で転がり落ちたのだろうか。それとも伝説の鬼が動かしたのだろうか。
亀石。むかし大和が湖だったころ、対岸の当麻に湖を占領されてしまい、多くの亀が死んでしまったので、人々が亀に似せた石を彫り供養したという言い伝え。奈良盆地は湖だった。

もう一つの説は川原寺の四至、つまり境界標だったのではないか。飛鳥宮の時代、川原寺は飛鳥寺と並ぶ四大寺のひとつで、大伽藍だったそうだ。画像は川原寺跡。手前の礎石は南大門跡、その奥は中門跡、右の基壇は塔跡、最奥の伽藍があるあたりに中金堂があったとか。

酒船石。石のかたちや窪み、「サカフネイシ」のサカの音から当てた漢字のようだが、それよりブラタモリで学者が話していた「笹舟石」のほうが断然魅力的。
窪みに水を流し笹舟を浮かべ、舟がどちらへ向かうか。つまりは占い。別の道を下ると石垣の復元があるが、学者曰く、この丘は石垣で囲われた祭祀を行う斎場だったのではないかと。斉明天皇がこの石の前に立ち、笹舟を浮かべる様を想像してみた。

最後は藤原宮。Googleマップのナビを頼りに脇目も振らずこぎ続けたが、なかなかたどり着かなかった。それもそのはず場所を勘違いしていた。橿原神宮の真東にあると思い込んでいた。
天武天皇の飛鳥浄御原宮のあと、持統天皇がつくった最初の本格的な都なのに、国営の平城宮跡とは異なり広大な野原と柱の足元しかない。でも近所の方が犬の散歩をしていたり、子供たちが追いかけっこをしているのを見ると、このまま整備されないでほしいと思った。
奈良へ行く車窓から平城宮跡を見るたび、あそこまで復元する必要はあるのだろうかと思う。この3月には新たに大極門がつくられたようだが、どこまで整備すれば完了となるのだろう。近鉄の線路も移動が決まったようだが、そこまでしなければならないのだろうか。
自転車返却のリミットが近づいていたので、説明を読み写真を1枚撮っただけでおしまい。