8月が終わろうとしているが、ひとつやり残していることがある。それは浄土寺の阿弥陀三尊の拝観。夕方高いところから差し込む陽が、床や天井へ乱反射し、朱色に染まった光に三尊が浮かび上がる。その姿はまるで、飛雲に乗り来迎するかのように見えるとか。
これを観るには快晴がよいそうだが、これまでなかなか叶わなかった。でも今日の夕方はどの天気予報も晴れマークだったので、ハズレはないだろうと出かけることにした。
計画当初は午後家を出て三尊を拝観するだけのつもりだったが、それではもったいないので、朝家を出て『鶉野飛行場跡』を訪れた。姫路海軍航空隊の基地だったそうで、ミッドウェー海戦の失敗から制空権の重要性を認識し、パイロットを急遽養成する必要からつくられた練習部隊だったそうだ。滑走路の跡が残っていて、ほかにも防空壕や、この春オープンした『soraかさい』という展示施設もあるようで、見ごたえのありそうな場所だった。
粟生(あお)駅。前回浄土寺を訪れたときは、この駅で神戸電鉄からJRへ乗り換えたが、今日は神戸電鉄から北条鉄道へ乗り換える。地図アプリで『鶉野飛行場跡』を見つけなければ、この鉄道を知ることはなかったように思うので、何だか感慨深い。
列車に乗ると鈴虫が鳴いていた。環境音楽を再生しているのかと思ったが、ロングシートへ座り向かいの網棚を見上げると、虫かごが置いてあった。本物の鈴虫だった。
法華口駅で下車。駅舎の向こうに見えるのは、一乗寺三重塔の模型。法華口という駅名も疑問に思っていたのだが、地図アプリをよくよく見ると、西へ5kmのところに一乗寺があった。5月にはじめて訪れたときは姫路からバスに乗ったが、この駅からのほうが断然近かった。
マイクロバスが停まっていたので近づくと、『soraかさい』行きの送迎バスだった。土日祝日のみ運行しているそうだ。防空壕跡などを見ながら歩いて向かうつもりだったが、これに乗れば30分稼げる。防空壕跡などは帰りに見ることにして、乗せてもらうことにした。
奥が『soraかさい』で手前は防災備蓄倉庫だそうだ。倉庫の中央はがらんどうで、レンタサイクルが10数台。『soraかさい』が窮屈なようだったので、こちらへ分散すればよかったのに。
飛行機の格納庫、あるいは巨大な納屋のようなかたち。おおらかでこの場所に合っている。何もない前面空地はイベントスペース。屋内の戦闘機をここへ出すこともあるそうだ。
滑走路の路盤を固めるための転圧ローラー。コンクリート製が一般的だそうだが、これは御影石を削ってつくられたそうだ。10数人で引っ張るそうだが、2tくらいあるだろうか。
施設へ入ると中央に戦闘機。紫電改と、吊り下がっているのは九七式艦上攻撃機だそうだ。
左右に立つ縦格子はパーテーション。右は歴史ゾーンと称し、姫路海軍航空隊の開隊から終戦までの出来事を紹介。左はカフェと物販コーナー。地元の特産品などが豊富だった。
物販コーナーの上は観覧デッキ。違う角度から戦闘機を見ることができる。
デッキからの眺め。奥が歴史ゾーンだが、思ったより展示が少なく物足りなかった。右に見切れているのは大型スクリーンで、CGの戦闘機が空を飛ぶ様子が映し出されていた。
デッキからカフェと物販コーナーを眺める。アングルを背中合わせにした細いトラスが美しい。右に集まるダクトがきれいに収まっている。照明ダクトレールの吊りボルトを給気ダクトに留め、振れ留めを廃している。建築設計はいるか設計集団、展示設計は乃村工藝社だそうだ。
次は『soraかさい』のそばにある無蓋掩体壕(むがいえんたいごう)へ。畑のあぜを歩いていて出くわしたが、これも分水工というのだろうか。ポンプなどはなく自然に流れるままだった。
掩体壕とは、戦闘機などを敵の攻撃から守るためのもので、ここの場合は戦闘機の周りにある土塁だそうだが、無蓋つまり屋根がないので、空からの攻撃ではなく横からの爆風などに備えるものだったそうだ。右の旗はZ旗。青いTシャツのおじさんにレクチャーいただいた。
滑走路跡。それとわかりづらいが、長さ1,200m、幅45mだそうだ。終戦までここで紫電や紫電改が試験飛行を行っていたとか。滑走路の中央に立ち、当時に思いを馳せてみた。
防空壕その2。巨大防空壕シアターと名づけられている。上映開始時間に間に合わなかったが、受付の方へ途中からでも入れるかとたずねたところ、この回は観客がいなかったので上映していないが、見学はできるというので案内していただいた。
幅5m、奥行14.5m、高さ5m。基地内で最大だそうだ。ここは人が逃げ込むところではなく、発電設備が置かれていたそうだ。階段を下りたあたりの壁が、型枠を外したばかりのようにきれいだったが、つくられた当時のものだそうで驚いた。型枠は小幅板。コンパネの開発は終戦後。
対空機銃座跡。なぜいったん地中へ潜るのだろうと思ったが、弾倉など重いものは手間取るだろうから、見つからないように地中から運んだということだろうか。
25mm連装機銃だそうだ。それにしてもこの大層な覆い。杉本博司さんの『聞鳥庵』とまではいかなくても、もう少し線を減らすことはできなかったのだろうか。
法華口駅へ戻った。左から駅舎、トイレ、三重塔。前2つは国の有形文化財だそうだ。
巨大防空壕シアターなどで長居をしてしまい、予定していた列車に乗り遅れた。別の移動手段は見つからず、近くに観るものもなさそうなので、次の列車が来るまで駅で1時間過ごした。
線路の枕木にネームプレート。寄付の返礼のようだが洒落ている。斜めの枕木も味がある。
踏切から西を見る。画像の手前に駅舎があるのだが、列車はこちらの新しいホームに停まる。
右に写る屋根の下にはICカードリーダーのようなボックス。専門的でよくわからないが、運転手が持つICカードをこのリーダーへタッチすれば、列車の行き違いが行えるそうだ。
北条鉄道は全区間単線だったそうだが、2020年にこのシステムと右に写る行き違い線路がつくられたので、30分に1本走らせることができるようになったそうだ。
再び粟生駅。こちらは神戸電鉄。アルミボディに赤いアクセントがウルトラマンのよう。
浄土寺の前に『広渡廃寺跡歴史公園』を訪れるつもりだったが、1時間遅れてしまったのであきらめていた。でも小野駅へ着き、地図アプリでルートを検索すると、公園の近くを通るバスがあり、間もなくやって来るというので、駅から離れたバス停へ急いだ。
広渡廃寺とは、広渡寺という寺が廃されたということのようだ。でも寺の記録は残っておらず、この場所が広渡町にあることからそう名づけられているにすぎないとか。
奈良時代後半、行基により創建されたそうだ。発掘調査の結果、金堂、講堂、東西塔、回廊などを有する薬師寺に似た伽藍だったが、平安時代後半には荒廃してしまったそうだ。
浄土寺の本尊薬師如来は、ここ広渡寺の本尊だったそうだ。浄土寺縁起に記述があるそうだ。出土品はあまりないそうだが、併設された資料館には行基瓦などが展示されていた。
心礎には「市指定文化財」のラベルが取りつけてあったので、建立当時のものなのだろう。
薬師寺式の伽藍配置だったそうだ。西塔跡のそばに1/20の模型が展示されているが、防護柵が二重に設えられていて遠い。せっかく細かくつくってあるようなのに、近づいて見られない。
浄土寺へ向かう。周囲は一面農地だが、播磨国大部荘の名残りだろうか。浄土寺が東大寺の播磨別所だったころ、西は加古川、北は東条川までが荘園だったそうだ。
浄土寺到着。陽はまだ高い。前回はタクシーで来たので、この光景を味わえなかった。
本堂(薬師堂)。正面は引きがないので、陽の当たるこちら側から。前回は余裕がなく説明を読まなかったが、旧国宝だそうだ。よいお堂だと思ったが、やはりそうだった。
開山堂。開基重源(ちょうげん)上人の坐像が安置されているそうだ。表側の奥行1間が吹き放ちになっていて珍しい。鎌倉時代の建立だそうで、4隅の舟肘木以外に装飾がない簡素なお堂。
不動堂。こちらもあまり見かけないファサードだが、3間とも蔀戸になっていた。
時計を見ると16時前だったが、浄土堂へ入った。先にお一人床に座っておられたので、真似をして座っていたが、まだ早いようだったので、立ち上がり三尊やお堂をしげしげと眺めた。そのうち拝観者が一人二人と増えてきたので、再び座りなおした。
光は思ったよりゆっくり変化した。床に光の当たる面が増えるにつれ、天井の朱色が輝きを増し、三尊の黄金も徐々に光を蓄えていった。でもそこまでだった。ネットにある画像はどれも、朱色に染まった光が三尊の黄金と溶け合い、息をのむような光景なのだが、この目で見た光景はそこまでではなかった。あれらの画像は、あとから加工したり、照明をあてたのだろうか。
浄土堂を出て、最後に1枚撮っておこうと振り返ると、お堂に後光が差していた。
西側へ回ってみた。蔀戸の隅々まで陽が当たっているが、実際は少し南のほうから差している。方位はちょうど真西あたりなのだが、浄土堂が真西より北へ9度傾いているそうだ。
PHOTO EPHEMERISというアプリは、指定した場所における太陽位置図を自動で作成してくれる。過去の日付や時刻を指定できるので、今日鑑賞したときの位置を確認した。
浄土堂内の光環境は、我々アマチュアだけでなくプロにも魅力があるようで、ネットである研究者のシミュレーション結果を読むことができる。2004年7月27日の14時30分から17時30分でシミュレーションを行った結果、三尊正面の照度が最も高いのは16時30分だったそうだ。つまりこの日時の三尊が最も輝いているということか。さっそく来年の7月27日に予定を書き込んだ。