ものが先で思想はあと

大阪日本民芸館で、学芸員による講座『はじめての「民藝」』を受講した。民藝に興味を覚えて久しいが、いまだ理解が及んでおらず、教えを乞うことにした。

黄金の顔を眺めていて思い出した。太陽の塔公開にあたり、「建築物」とするため機械排煙設備を設置したが、排煙口は目立たないよう黄金の顔の裏に設置したそうだ。アップを撮ってみたが、黒い太パイプの下に四角い蓋のようなものが見える。これがそうだろうか。
久しぶりに太陽の塔公式サイトを覗くと、撮影条件が変更になっていた。これまでは落下防止のため1階でしか撮影できなかったが、500円で借りるスマホケースに入れれば、階段の上からでも撮影できるようになったそうだ。これで天井や腕の中、生き物のアップを撮影できる。

大阪日本民芸館を訪れる前に寄り道をした。大阪万博の時につくられたイサム・ノグチの噴水作品が残されている。昨日イサム・ノグチに触れたので、久しぶりに見たくなった。
はじめて見た時から噴水は止まっていたが、10年前に噴水機能と可動部分を取り外し、オブジェとして再生する工事が行われたそうだ。当時を知る方に指導を仰ぎ色彩を復元したそうだが、それならいっそのこと噴水機能と可動部分も復元すればよかった。
噴水に近づけないよう柵を設置すれば、サイクルボートは営業を続けられるだろう。間近に噴水を見ることができるし、夏は清涼を求める人で行列ができるかもしれない。

灰色と黄色の半球体は『宇宙船』。潜ったり浮いたりし、浮いている時に水を噴き出していた。背の高い立方体は『彗星』。底から滝のごとく水が流れ落ちていた。背の低い立方体は『コロナ』。底に加え壁からも水を噴き出していた。青い円柱は『星雲』。壁じゅうから水を噴き出していた。灰色の交差した円は『惑星』。回転しながら円の小口から水を噴き出していた。これらに加え、渦を発生させる装置が水中に3基設置されていたそうだ。

もう1つの作品は『月の世界』。他とは毛色が異なり噴水機能も可動部分もなかったようだ。
画像の右に切れている所には駐車場があるが、当時は万国博美術館や水盤があったそうで、その水盤に設置されていた。水面に固定され、周囲から噴水を浴びせかけられていたようだ。
ところで、岡本太郎を大阪万博へ呼んだのは丹下さんだが、イサム・ノグチを呼んだのも丹下さんだそうだ。2人の出会いは1950(昭和25)年。イサム・ノグチは個展のために来日していた。丹下さんは前年勝ち取った広島平和記念公園の仕事をしていたが、慰霊碑のデザインが決まらなかったので、イサム・ノグチへ参画を要請。でも彼はアメリカ人の血を引いている、と岸田日出刀ら建設委員会が難色を示し、結局丹下さんがイサム案を活かすデザインで案をまとめた。
その後イサム・ノグチは牟礼にアトリエを設け、日本でも彫刻作品をつくるようになる。丹下さんとの交流も続いていたようで、大阪万博で再び丹下さんから参画を要請され、広島で叶わなかった協働を実現することができた。しかもその作品は現在も残されている。

時間が来たので大阪日本民芸館へ。受付で講座受講の旨を伝えると、会場である会議室へ案内された。これまでに聴講した講演の会場は、国立民族学博物館のセミナー室だったので、大阪日本民芸館にもそのような部屋があるのか、どこにあるのだろうと興味津々だった。
本講座は1回完結ではなく、春と秋に開催され、それを2年にわたり計4回で完結するそうだが、そのようなことはどこにも書いていなかった。この日はたまたま『第1回 柳宗悦と民藝運動』だったが、3回目だったらどのなっていたのか。どこから受講してもよいのだろうか。
初めに柳宗悦著『民藝四十年』を紹介。この本からの引用があるそうだが、そもそもこの本は柳宗悦の入門書としても適しているそうだ。改めて目次を見ると、朝鮮、木喰上人、雑器の美、工藝の美、大津絵、民藝の趣旨へと続き、柳宗悦の美の思想が年代順に収められている。

民藝という言葉は、仮に設けた言葉に過ぎない。お互に言葉の魔力に囚われてはならぬ。特に民藝協会の同人は、この言葉に躓いては相すまぬ。この言葉によって一派を興した事にはなるが、これに縛られては自由を失う。もともと見方の自由さが、民藝の美を認めさせた力ではないか。その自由を失っては、民藝さえ見失うに至るであろう。(中略)
それで、民藝を見る眼も、その「さわりなき心」の眼でなければならない。民藝趣味などに囚われたら、本当の民藝はもう見えなくなる。眼が不自由になるからである。もともと私どもは、 民衆的作品だから美しい等と、初めから考えを先に立てて品物を見たのではない。ただじかに見て美しいと思ったものが、今までの価値基準といたく違うので、後から振り返ってみて、それが多く民衆的な性質を持つ実用品なのに気づき、総称する名がないので、仮「民藝」といったまでである。

柳宗悦「改めて民藝について」『民藝四十年』岩波文庫1988(1958)

上記が引用部分。後記も1958年に書かれ病床にてとあるので、これも病床にて書かれたのかもしれない。3年後に亡くなったが、言葉を生んだ者としての責任を全うしたかったのだろうか。