宇陀、桜井、五條

浄土寺の阿弥陀三尊を夕方快晴のときに拝観しようと企てているが、なかなか晴れてくれない。今日も数日前の予報では晴れだったが、昨夜の予報では曇りだったので行くのをやめた。
代わりに別の場所へ行くことにした。国宝建造物一覧データを開き、奈良県の奈良市外に目をつけた。奈良市外でまだ訪れていないのは、法起寺、石上神宮、宇太水分(うだのみくまり)神社 、長谷寺、榮山寺。法起寺と石上神宮は別の機会に訪れることにして、残る3つを訪れた。

最初は宇太水分神社。近鉄榛原駅からバスで15分。菟田野古市場(うたのふるいちば)という場所にある。一の鳥居の奥にあるのが社叢。鳥居はむかし、画像手前の芳野川よりさらに手前に立っていたそうだが、水害で流されてしまいこの場所へ立て替えたそうだ。
菟田野は古事記や日本書紀に載っているそうだ。古市場の古名は玉造部だそうだが、この辺りで勾玉など玉類の製作が行われていたということだろうか。市が並んでいたので市場へ変わったが、市場が宇陀松山城下のほうへ移ると古市場へ変わったそうだ。

旧街道に接した境内入口と二の鳥居。奥にあるのは拝殿で、その奥に本殿がある。

国宝本殿。一間社隅木入春日造の棟3つで国宝指定。隅木入春日造では最古だそうだ。
祭神は、右から第一殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、第二殿に速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)、第三殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)だそうだ。右端に屋根が見切れているのは春日神社、さらに右には宗像神社があり、1つの瑞垣で囲われている。有料の瑞垣内参拝をお願いするつもりだったが、ちょうど朝拝と重なってしまい叶わなかった。
右にある屋根のかかる水盤はご神水で、推古天皇が薬狩りの際に身を清めるのに用いたとか。左の太い杉は1本に見えるが、根元で2本に分かれていて、夫婦杉と呼ばれているそうだ。

帰りは榛原駅の手前でバスを降り、もう1つの宇太水分神社へ。先に訪れたほうを上宮、こちらを下宮と呼ぶそうだが、先に訪れた宇太水分神社より東には、総社水分神社という別の神社があり、そちらを上宮、先に訪れたほうを中宮、こちらを下宮と呼ぶこともあるようだ。
それにしても、植込みの位置を間違えたのか、鳥居の位置を間違えたのか、トマソン的風景の一の鳥居。鳥居をくぐると路面が苔むしていて滑るので、奥にある階段から参拝。

階段を上り二の鳥居をくぐると、現れたのは素敵な参道。奥の拝殿と本殿に光が差している。

拝殿は先に訪れた神社のものとそっくりだが、同じ設計者や施工者によるものだろうか。
説明板によると、神明造の本殿は、明治のはじめまでは春日造だったそうだ。”明治11年、神社形式令により県社の指定を受け現在の神明造になっている”そうだが、神社形式令とは何だろう。県社になったとあるので、明治4年制定の近代社格制度のことだろうか。
社格が変わると建築様式まで変わるのだろうか。中臣連等の祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祭神の一柱だからだろうか。大中臣氏は伊勢皇太神宮の祭主を務めたそうだ。

次は長谷寺。近鉄長谷寺駅からまずは谷へ下りるようだ。子供の頃キャンプの帰りに寄ったことがあるが、車だったので駅からの参拝ははじめて。道の両側には商店ではなく民家が並ぶ。

大和川を渡ると旧初瀬街道。長谷寺へ続く門前通り。商店や宿が軒を連ねていた。

趣きのある一角。與喜(よき)天満神社切石御旅所御由緒と書かれた説明板によれば、神となった菅原道真が946(天慶9)年9月20日に影向し、門扉の後ろにある切石に座ったそうだ。授与所まで設けて余程ありがたい場所なのだろう。左の老梅は樹齢300年。桜井市の天然記念物だとか。

境内入口。右の建物は総受付。山内の火災除けのためか秋葉権現が祀られていた。看板には「豊山派寺院受付」とあったが、真言宗にも流派があるのだ。腰屋根の後ろに見えるのが本堂。

立派な仁王門。楼上には釈迦三尊、十六羅漢像が安置されているそうだ。

登廊。仁王門をくぐるとすぐにはじまる。本堂まで続いていて、上中下合わせて399段。提灯は長谷寺独自の意匠で、仁王門や本堂の大きなものは美しい。

奥が国宝本堂、国宝指定は2004年だそうでまだ若い。登廊を上り切った建物は鐘楼。天井に開いた穴から梵鐘が見えたのでわかったが、こうして外からでないと鐘楼があるとは気がつかない。本堂は入母屋の部分が正堂で、左側が礼堂だそうだ。正堂は本尊を収めるために高い。

外舞台より礼堂を見る。奥の正堂には本尊・十一面観音菩薩が祀られているが、その高さは三丈三尺(10m)だそうだ。知らずに参拝したので、姿が見えたときはのけぞってしまった。
伝承では、近江国高島から運ばれた楠を用いて3日間で彫りあげたそうだ。そのとき2体造られたそうで、もう1体は行基が衆生済度の願いを込めて海へ流したところ、15年後に相模国の沖合に現れたので、鎌倉へ遷座した。それが鎌倉長谷寺の開創の礎となったそうだ。

礼堂や外舞台は懸造。足元には石垣が築かれていたが、瓦が載っているのをはじめて見た。

一切経蔵。木鼻、花頭窓、弓欄間、桟唐戸は禅宗様だが、垂木は平行だった。

長谷寺の草創は、天武天皇の病気平癒を祈願して、道明上人が『銅板法華説相図』を造営したことによるそうだ。このお堂はのちに建てられ、その銅板を本尊としてお祀りしていたそうで、本長谷寺と呼ばれているそうだ。現在お堂にはレプリカが置いてあり、本物は奈良博へ寄託されているそうだが、先日鑑賞した『大安寺のすべて』展に出品されていた。

西から見た本堂。複雑な屋根の形状がよくわかる。左側の正堂は入母屋造平入、右側の礼堂は左右に千鳥破風のついた入母屋造妻入で、その屋根は裳階となって正堂側面に回り込んでいる。

奥の院から本坊へ行かずに登廊へ戻った。屋根の傾斜は10度くらいだろうか。

駅への帰り、門前通りの郵便局。隣家の松が侵食しているが、枝を支えるトラス構造がよかった。隣家は『廊坊(ろうのぼう)家住宅』だそうで、長谷寺と深く関わりがあるとか。祖先は藤原房前より出ているそうで、長谷寺の別当や俗別当を代々務めたそうだ。

近鉄で吉野口まで行き、JR和歌山線へ乗り換えた。昨夕雨の影響で運転を取りやめていたようだが、通常運転されていた。和歌山線の車両は古いと思っていたが、新快速と同じ最新型だった。山間を走るから帯が緑色なのだろうか。JR西日本の車両は芸がない。

JR五条駅で下車。住宅街を抜け、国道24号の交差点を渡り、しばらく歩くと吉野川が現れた。子供たちがとても気持ちよさそうにカヤックを漕いでいた。このあたりではカヤックやラフティング教室をしているらしく、榮山寺のそばにはモンベルの店があった。

榮山寺門前。看板に藤原南家菩提寺と書いてある。パンフレットによれば、創建は719(養老3)年。藤原武智麻呂の開創だそうで、地図を見ると裏山に墓がある。
自販機の向こうを左へ折れ、少し進むと受付があったが、固く閉ざされていた。「入山料は志納箱にお入れください」と書かれた紙や、参拝順序を言葉だけで示した紙が、パウチされて掲示してあった。事情があるのかもしれないが、この応対はいかがなものか。興ざめてしまった。

中華街の料理店にあるような山門をくぐろうとしたとき、脇に志納箱を見つけた。スタンド式の小さな箱。それこそ無人のお堂やお社に備わっているタイプ。さらに興ざめした。

山門の左側の建物には、国宝の梵鐘が釣り下がっていた。建造物以外の国宝には無頓着なので知らなかった。説明板によれば、京都深草の道澄寺のために、藤原道明が叔父橘澄清とつくったそうで、のちにこの寺へ移入されたそうだ。普段誰もいないから、防犯のために格子のピッチが細かいのだろうか。おかげですばらしい梵鐘がよく見えなかった。

塔ノ堂は江戸時代創建の重文。塔になる予定だったから塔ノ堂だろうか。

本堂。石碑を一緒に撮りたかったので遠くなった。南朝の行宮跡だそうで、後村上、長慶、後亀山天皇の行在所だったそうだ。賽銭は、開いている格子から投入するようになっていた。よく見ると屋内側にシャッターが閉じていた。このようなことでよいのだろうか。

国宝八角堂。父武智麻呂の追善供養のために子仲麻呂が建てたそうで、法隆寺夢殿と同じ奈良時代の建立だそうだ。他の堂宇が戦火に見舞われるなか、このお堂だけは免れた。夢殿と同じ様式だが、こちらのほうが小さいのでつくりが簡素。天平時代に思いを馳せた。
帰りの列車を調べると、橋本駅経由の南海電鉄が早かった。橋本駅は高野山へ行くときに通るが、大阪からだととても遠いのに、五条駅からだとたった4駅。思えば遠くへ来たもんだ。
橋本駅からは『こうや号』に乗った。特急料金が520円だったので甘えてしまった。京阪電車のプレミアムカーといい、ワンコインは大変危険。まあいいかと利用してしまう。
梅田で買い物をした帰り、IDEE SHOPへ立ち寄り『フィリップ・ワイズベッカー作品展』を観賞。春にATELIER MUJI GINZAで開催された『Philippe Weisbecker “HANDMADE”展』の一部だそうだが、家具は置いていなかった。家具を描いたドローイングが数点と、その下絵を描いたノートのコピーや、インタビューの映像、著書の販売が行われていた。
ドローイングは販売されていたが、どれも魅力的ではなかった。大判サイズがいけないのだろう。ノートに描いた下絵を拡大しただけの表現なので、ワイズベッカーさんの味のある描画が大味になってしまっていた。最も大きなサイズで130万円だったが、買い手がつくのだろうか。