山崎

アサヒビール大山崎山荘美術館にて黒田辰秋展を鑑賞。来月訪れようと考えていたが、京都市芸術文化協会主催『ゲイジュツのミカタ』というイベントを発見。黒田さんに師事した村山明さんという方を迎え、公民館でお話を聴き、展覧会にも同行してもらえるというので参加。
イベントは午後だったが、せっかくなので早めに山崎へ入り、未訪だった場所を訪れた。

JR島本駅のホームからの眺め。新快速の車窓からしか見たことがなく、何ができるのだろうと思っていたが、マンションとクリニックモールとスーパーマーケットだそうだ。
この開発地のことは、山崎在住の方や、島本町議会議員のブログで知った。室町時代からの農地を宅地へ転用する、13haにも及ぶ土地区画整理事業だそうだが、区画には山尾遺跡や越谷遺跡が含まれているとか。後鳥羽天皇ゆかりの水無瀬離宮の一部の可能性があるそうで、工事を行う前に発掘調査が必要だが、一部で調査前に工事を始めてしまい、壊してしまった。でもその後町は遺構とは判断せず、十分な調査がされないまま埋め戻されてしまった。複数の団体が再調査を求めたようだが、開発や建築でしか未来はないと考えている者達に聞く耳はない。
列車の接近メロディがサントリーオールドのCM曲だった。サントリー山崎蒸留所は隣の山崎駅のほうが近いのだが、所在地はこの駅と同じ大阪府の島本町なのだそうだ。だから町が国産ウィスキー発祥の地をPRしようと発案したそうだが、果たしてどれほどの効果を生むのだろう。
違和感を感じたのは、この風景に合わないと思ったから。サントリー山崎蒸溜所の辺りは山が近く三川も近い。湿度が高いので霧が立つ。そのような情緒はこのホームからは見られない。数年後には高層マンションが立ちはだかるのだろうから、遠くの山も見えなくなる。

駅の反対側にある島本町立歴史文化資料館。旧称『麗天館』だそうだ。島本駅ができるまでは、国史跡『桜井駅跡』と一体だったようだが、駅前道路ができたことにより分断されてしまったようだ。1940(昭和15)年竣工と新しいが、裳階が4面とも廻り社寺建築を感じさせる。

国宝後鳥羽天皇宸翰御手印置文(しんかんおていんおきぶみ)の複製。水無瀬神宮の所蔵で、実物は京都国立博物館へ寄託されているそうだ。
承久の乱に破れ、隠岐へ流された後鳥羽天皇。19年もの間島で過ごしたが、病気になり、いよいよ往生が近いと悟ったのか、近臣だった水無瀬信成、親成親子へ万一の際を示した文書。崩御する13日前に書かれたそうだが、病人とは思えない筆跡に感心した。
水無瀬神宮が所蔵するもう1つの国宝、紙本著色(けんぽんちゃくしょく)後鳥羽天皇像の複製も展示してあった。承久の乱直後に、生母七条院へ送るため藤原信実に描かせたものだとか。

水無瀬駒。能筆家だった水無瀬家13代兼成が制作した将棋の駒で、現在の駒のルーツだそうだ。画像の将棋は『中将棋』といい、室町時代に誕生し、身分の高い人々に遊ばれていたそうだ。マス目は12×12、駒数は21種類92枚もあるとか。チェス同様に取った駒は使えないそうだ。

摂津職嶋上郡水無瀬荘図の複製。実物は正倉院所蔵だそうだ。山麓に東大寺という地名を見つけたのだが、東大寺領だった水無瀬荘があったそうで、戦国時代まで領地だったとか。

敷地内に遺構が再現されていた。水無瀬離宮の庭園跡と考えられている西浦門前遺跡の一部だそうだ。遣水跡だそうで、庭園を訪れた藤原定家の日記『明月記』に、この遺構によく似た光景が描かれているとか。建築するので現地保存はできず、ここに復元されたそうだ。

水無瀬神宮。訪れたいと思ったのは、社ではなく宮だったから。大阪府唯一の神宮でもあるそうで、後鳥羽天皇と2人の皇子-土御門天皇、順徳天皇-が祀られている。
後鳥羽天皇はこの地を大変気に入り、水無瀬離宮を造営したそうだ。歴史学者の豊田裕章氏によれば、それは単なる別荘に止まらず、様々な機能を備えた都市的な規模だったとか。その中核を成した本御所が建っていたのが、ここ水無瀬神宮なのだそうだ。

神門は薬医門。柱の掲示に驚いた。石川五右衛門の手形があるという。文禄年間、神宝の刀を盗もうとしたが、神威にうたれ門の中へ入れなかったので、手形を残して立ち去ったとか。

網をしてある所がその部分。周りより白くなっていたが、手指の形はなかった。当初はついていたのだとしても、400年も経てば消えてしまうだろう。

右が拝殿。左は客殿だそうだが、豊臣秀吉からの寄進だそうで重要文化財。

客殿の裏に『灯心席』と呼ばれる茅葺屋根の茶室があり、こちらも重要文化財だそうだ。
特徴は名称の由来となった天井。灯心の材料となる様々な草木が格天井に編まれているそうで、一度観てみたいものだが、5名以上でなければ見学できないようだ。

手水舎の水は、水道水ではなく井戸水。『離宮の水』と呼ばれていて、環境省『全国名水百選』に選ばれているそうだ。行列が絶えないようで、確かに美味しいと思った。
千利休が待庵をつくり、サントリーが蒸留所をつくった理由を垣間見ることができた。

水無瀬川。本当に水がなく驚いたが、そもそも水無瀬とは、「水の流れていない川。川床だけあり、水は伏流となり地下に潜っているような川。水の非常に少ない川」という意味の普通名詞だそうで、この辺りはまさにその通りの状態になっているようだ。

遠くにサントリー山崎蒸留所。2つの乾燥塔が印象的。1967(昭和42)年まで使用されたとか。
画像には写っていないが、右400mに山崎駅。接近メロディが相応しいのはどちらの駅だろう。

観音寺のそばに開けた場所があった。国指定史跡『大山崎瓦窯跡』だそうだ。平安京造営のために設けられたそうで、発掘調査の跡は残っていないが、植栽などで窯跡を現していた。
それにしても見晴らしがよく、阪急電鉄、JR、新幹線、石清水八幡宮のある男山が望めた。

トーク会場は大山崎ふるさとセンター。昨秋訪れた大山崎町歴史資料館が2階にある。
村山さんが入学した京都市芸術大学彫刻科に、黒田さんの息子さんがいたそうだ。新入生歓迎会で息子さんが村山さんを気に入り、自宅へ招かれたそうだ。そこで黒田さんと出会い、仕事を手伝うようになった。在学中は清水の自宅へ、卒業後は岐阜の高山へ通われたそうだ。
黒田さんは寡黙な方で、ウィスキーとキャビアをちびちびやるのがお好きだったそうだ。黒田さんを寛次郎さんへ紹介したのは、八木一夫さんの父一艸(いっそう)さんだそうだ。

美術館へ着くと館長の挨拶があり、知りたかったことを話してくださった。民藝とモネが同居する理由を知りたかったのだが、モネも所有していたからというそれだけのことだった。
展覧会場では、最初の展示室では村山さんについて回ったが、広くない展示室に大勢がいて窮屈だったので、次の展示室で離脱し、それ以降は独りで鑑賞。閉館までゆっくりした。
黒田さんの作品は、『美術館「えき」KYOTO』や『ZENBI』で行われた展覧会で鑑賞したことがあるが、本展は山本爲三郎コレクションだったので、初見の作品が多くあった。だから図録を用意してくれてうれしかった。奥付を見ると、大向デザイン事務所の装幀だった。
施設名称が『アサヒグループ大山崎山荘美術館』へ変わるそうだ。アサヒビールからアサヒグループジャパンへの所有者変更に伴うものだそうだが、いっそのこと『大山崎山荘美術館』にすればよかった。フルネームで読んだことはないし、今やこれだけでも通用するだろう。