1400年前の絵画

キトラ古墳と高松塚古墳の壁画を観賞した。文化庁のウェブサイトを閲覧していて公開を知ったのだが、ウェブサイトから申し込みができたのでそのまま手続きを行った。申し込みは別々だったので、同じ日に続けて観賞する希望が叶うか心配だったが、どちらも第1希望が当選した。

キトラ古墳が先なので、飛鳥駅の先の壺阪山駅で下車。来るまでにひと雨あったようだ。

開館までキトラ古墳を見学。寂しいが、芝が枯れているほうが形がはっきり見える。

時間が来たので『キトラ古墳壁画体験館 四神の館』へ。エントランスのある地階へ下り、特設窓口で受付を済ませてしばらく待機。案内係の後について、階段を上ると展示室だった。
思い出した。前に来たときもその部屋へ入っていた。その時はガラスの向こうは真っ暗で何もなかったが、今日は壁画が展示されていた。南壁の朱雀だった。過去の見学会を確認すると、毎回ひと壁ずつ展示されているようで、朱雀の展示は2021年夏以来のようだ。
壁画は石材に塗り込めた漆喰の上に描かれている。高松塚古墳では石室そのものが取り出されたが、キトラ古墳では漆喰層だけが剥がされた。剥がすための工具が展示してあったが、使用方法は地階の展示室に実際の映像と共に紹介されていた。
次は高松塚古墳。前に来たときは寄らなかった、キトラ古墳周辺地区を歩いた。

体験工房。腰窓の木製ガラリに感嘆したが、その下の両引き戸の引き込み側は残念。

訪れたかった於美阿志(おみあし)神社。百済から帰化してここに居住した阿知使主(あちおみ)を祭神とするそうだが、興味があったのは境内にかつて存在した桧隈寺(ひのくまでら)。神社を取り囲むように、中門、金堂、塔、講堂、回廊のある伽藍だったそうだ。

重要文化財の石塔婆。元は十三重だそうだが、上が欠けてしまい現在は十一重。柵の範囲が広いのは、ここに塔が建っていたようなので、その大きさを示すためだろうか。

素敵な色と形の納屋。片流れ屋根の勾配が緩いのはご愛敬。

遠くに高松塚古墳。適当に築山していると思ったら、オリジナルに忠実だそうだ。

高松塚古墳の壁画は、飛鳥歴史公園館の裏にある仮設修理施設に保管されていた。建物に入るとすぐに見学通路になっていて、窓から石室のピースが並んでいるのが見えた。北壁の玄武、天井の星宿2ピース、西壁の女子群像、東壁の女子群像が窓のそばに置かれていた。保護のためか部屋が明るくなかったが、オペラグラスを貸してくれたので目近に観賞することができた。
修理施設の前につく「仮設」が気になった。史跡は現地保存が原則なので、修理が済めば古墳の中へ戻されるそうだが、そうなれば施設は無用となるので「仮設」だろうか。別につけなくてもよいと思うのだが、それでは半ばお上のような団体には許されないのだろうか。
壁画(石室)は2020年3月に修理が終わっているそうだが、いまだに古墳の中へ戻されていない。カビの再発を防ぐ技術の確立などの目途が立っていないからだそうだ。
見学の前に控室で映像を鑑賞した。1972年3月に壁画が発見されてからこれまでを振り返るものだったが、すっかり忘れてしまっていた。壁画(石室)を現地保存すると決めると、コンクリート造の保存施設が石室に隣接して設けられたが、2001年に行われた天井崩落止め工事の不手際で石室に大量のカビを発生させてしまい、壁画にもダメージを与えてしまった。
現地での修理はあきらめ、外へ出すことを決めて仮設修理施設を建設。2007年4月に石室を解体して運び込み、12年に渡りクリーニングや石材の強化などを行ってきたそうだ。
昨年3月に行われた『古墳壁画の保存活用に関する検討会』の会合では、2029年度までに新たな施設を建設する方針が示されたそうだが、やはり戻すことは困難なのだろうか。ならばキトラ古墳の四神館のような施設をつくって永久保存し、展示することにしたのだろうか。
白と水色のワンボックスカーはイベント支援会社のものだった。アンケート用紙に記入するためのスペースが屋外にあったが、テントやテーブルなどを貸し出しているのだろうか。
壁画は国宝だそうだが、どの部分が指定されているのか知りたくて、通路やテントにいた女性へ聞いてみたが知らなかった。アルバイトなのだろうと思ったが、上述の会社は人材も派遣するそうなので、彼女たちもその会社から派遣されたのかもしれない。
結局飛鳥歴史公園館の方が答えてくれた。国宝に指定されているのは、天井、西壁、北壁、東壁の4面。南壁は、盗掘穴のせいでそこに描かれていたであろう朱雀がないので指定外だそうだ。ちなみにキトラ古墳の壁画も国宝だが、こちらは南壁も含めて5面が指定されているとか。