三佛寺

投入堂を訪れた。ずっと訪れたかった場所だが、単独での参拝登山は許されていない。現地で仲間を探す人もいるそうだが、見つかる保証はない。近くに住んでいれば何度でも足を運べるが、大阪からだと『スーパーはくと』と路線バスを乗り継ぎ5時間もかかる。
訪れることができたのは、クラブツーリズムが主催するバスツアーのおかげ。投入堂を検索していて見つけた。商品ページのカレンダーに5月の開催日がいくつか挙がっていた。数日後に確認すると開催日がこの日だけとなり、催行決定となっていたので申し込んだ。バス往復、入山料、投入堂参拝登山料、現地案内人がついて14,900円。上述の交通手段の場合1.9万円。

集合場所は新大阪駅。他にもたくさんのツアーがあり、リュック姿の人が大勢いた。

お世話になった奈良観光バス。参加者はおそらく40名。うち男性は10名程だったか。おじさんばかりだとどんよりするが、女性が多いと明るく賑やかになってよい。

吹田ICから中国自動車道に乗り、院庄(いんのしょう)ICから国道179号を北上し県道21号へ。勝央(しょうおう)SAと道の駅奥津温泉でトイレ休憩。出発は8時、到着は12時だった。
バスを降りると現地案内人が待っていた。参加者全員でぞろぞろ移動するわけにはいかないので、年齢や経験などにより5つの班に分かれた。私は2班だった。
5名の現地案内人の中に女性が1人いたので、立ち並ぶ姿を見てゴレンジャーを想像した。アカレンジャーは5班の案内人、アオレンジャーは1班、キレンジャーは4班、ミドレンジャーは2班、モモレンジャーは3班。5班、1班、4班の案内人は、服やリュックの色が赤、青、黄だったので、本当にゴレンジャーに扮しているのではとニヤニヤした。

駐車場から少し上ると、入山料の支払いや御朱印帳の受付を行う参詣受付案内所。ここから本堂までの間に塔頭や宝物館があった。帰りに宝物館へ寄りたかったが叶わなかった。

本堂。この先の無事を祈願した。ツアーは「登山初級A」と種別されていたので、皆さんそれなりの身なりだったが、ラガーシャツにジーンズ、ポロシャツにチノパンという方もおられた。ラガーシャツの方は手ぶらだったので、現地案内人が脱水症予防にゼリーを渡していた。
私も登山には不慣れな初心者。リュックにはタオルとグローブと水しか入れていなかったので、高速を降りてから雨が降り出した時は青ざめた。バスで隣の男性は、今年中に日本百名山を制覇せんとする強者。リュックには常に雨具を入れてあるそうだ。当然のことなのだろう。

本堂の側面にある巨大な案内板。受付を待つ間、現地案内人が道中の説明をしてくれた。
案内板の右にいるのは1班の案内人。笠をかぶり、作務衣のような藍染の上下を着、背中には木製の背負子、靴は土工が履く地下足袋。腰に巻かれた小動物の毛皮は『尻皮』というそうで、防水や保温のためにマタギが着けていたそうだ。心の中で師匠と呼ぶことにした。

もう1つの受付である三徳山入峰修行受付所。先の受付で支払った入山料400円の有効範囲は本堂までで、本堂から先投入堂へ行くには投入堂参拝登山料800円を別に支払う。
登山届に記入し、六根清浄と書かれた輪袈裟を授かり、靴底チェックを受ける。グリップ力の有無を確認するためだが、NGと判定されれば900円の藁草履を購入しなければならない。
藁草履は職人の減少により200円値上げしたそうだ。朝日新聞デジタルに6年前の記事が残っているが、硬い登山靴は参道を傷つけることがあるので、本当は藁草履を履いてほしいそうだ。

行列の先に朱塗りの門がある。そこから先が入峰修行の行場ということだろうか。

この先のカズラ坂のために渋滞中。難所はどこも渋滞していた。カズラ坂は木の根が複雑に絡みあい、足の踏み場を瞬時に決められない。勾配があるので手も使って登る。

クサリ坂上り。垂直に近い岩山を登るのだが、特に難しくはなかった。

登り切った所にある重文の文殊堂。岩山の上に懸造。手摺のない外縁を1周したが、怖くはなかった。犬山城の望楼では高欄が低く足がすくんだが、何もないほうが却ってよいのかも。

地図に載っていなかった難所。カニ歩きで移動するが、ここも難しくはなかった。

重文の地蔵堂も懸造。全体を見渡せないが、おそらく文殊堂と同じかたちなのだろう。

鐘楼も岩の上に建っている。参道に平場なし。せっかくなので撞かせていただいたが、勢いがつきすぎ轟音となってしまった。皆さんをびっくりさせてしまった。
梵鐘は3トンあるそうで、どのように設置したのかわからないそうだが、ロープで引き上げる他ないだろう。でもなぜ3トンとわかるのだろう。それだけは記録が残っているのだろうか。

馬の背及び牛の背。岩の尾根を歩くのだが、雨降りの後なので度々滑った。

観音堂に到着。左側遠くに師匠が見えるが、投入堂はその先にあるようだ。拝観スペースが限られているらしく、現在拝観中の一団が戻るまでしばらく待機した。

いよいよ投入堂へ。この先を右へ折れ、岩壁に沿って回り込むと……

国宝投入堂。正しくは奥院。皆さんの頭を結んだ角度がそのまま床面の傾斜となっている。岩上なので滑りやすい。過去には、撮影に夢中になり滑落死した例があるそうだ。

国指定文化財等データベースによると、愛染堂という附があるそうだが、左端に見える小さな部分がそれのようだ。ここからはこの角度でしか見ることができないが、麓から望遠レンズで撮影された正面からの画像を見ると、別棟になっている。後から加えられたのだろうか。
右のお堂部分も増築を重ねたのではないだろうか。最初に奥のお堂をつくり、後から手前の廻廊部分を加えた。だから屋根が1枚ではなく継ぎ接ぎになっている。柱や斜材は場当たり的に決めたので、長さや配置がバラバラ。でもそれが却って自由なリズムを生んでいる。

奈良、京都と古寺巡礼を続けて、数十の名建築を見てきたが、投入堂のような軽快優美な日本的な美しさは、ついに三仏寺投入堂以外には求められなかった。わたしは日本第一の建築は?と問われたら、三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないだろう。

土門拳著「三仏寺と西国」『土門拳 古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫2002

帰りは文殊堂の懸造の中を通ることができ喜んだが、先にはクサリ坂が構えている。

クサリ坂下り。ここが一番の難所だった。前半は足裏全体でふんばることができたが、後半はほぼ垂直となるので窪みにつま先をかけるしかない。途中かけ方が浅く滑ってしまった。

16時下山。無事に入峰修行受付所へ帰り着いた。1班と共に下山したが、全班揃う前に師匠が離脱。2班の案内人に理由をたずねると、師匠は容姿だけなく暮らしぶりも個性的だった。昼間は狩猟やガイドを行い、夜は倉吉駅前に経営する居酒屋で働いているそうだ。

16時30分閉山。受付の方が出てこられ、開いていたゲートが閉じられた。印象的だった。
リーフレットに所要時間1時間30分~2時間と書いてあるが、3時間30分かかった。我々の他にもう一団のツアーと、個人参拝者も大勢いたので、難所や投入堂で時間を食った。
投入堂が観られたので大満足なのだが、欲を言えばもっと観ていたかった。文殊堂や地蔵堂の外縁からの絶景をもっと眺めていたかった。宝物館や塔頭を訪れたかったし、昨秋完成したという遥拝所から投入堂を眺めてみたかった。次回は相棒を見つけゆっくり参拝したい。

純粋な石室

ひと月ぶりの藤ノ木古墳。石室の特別公開に訪れた。申し込みは往復はがきだったが、復はがきが戻ってきたのは昨日。心配になり連絡すると、投函が遅れてしまったとのこと。
5分前に到着したが、すでに30名ほど並んでいた。斑鳩町の方より古墳の解説を受けた後、前から5名づつ見学という流れだったが、私の番が来た時には次の枠が始まる時間になっていた。
見学は1分間と復はがきに書かれていたし、質問は外にいる職員にとおっしゃっていたが、いざ石室へ入り石棺を目の当たりにすると、想像が膨らみその場で質問したくもなる。
石舞台などの開けっぴろげな石室ではなく、普段は閉ざされている純粋な石室。そこには1300年前からずっと変わらず石棺が置かれている。これほど素敵な場所はない。
よく考えれば、私が参加した枠には40名いたので、1分だと40分必要。解説の時間も加わるので、30分毎の枠設定はそもそも破綻している。たくさん応募があったのだろうが、詰め込みすぎ。

ひと月前より青さが増した墳丘。直径は50m以上あるそうだがそうは見えない。土を盛り地盤を上げたので小さくなったそうだ。墳丘に沿うようにして植えられたつげは、てっきり墳丘への登攀防止のためと思っていたが、元の大きさを示しているのだとか。
地盤を上げたのはバリアフリーのためだそうだ。羨道(せんどう)の路盤は砂利や石なので車椅子が進めない。だから路盤の上にブリッジを設け、段差をなくすために嵩上げした。でもそれなら扉付近のみスロープ状に均せばよかったのではないか。史跡は元の状態を維持することが第一のはずなのに、墳丘の大きさを変えてしまうことに抵抗はないのだろうか。
入口で学生が募金を募っていた。文化財保護のためと書いてあったので、無料だった見学料の代わりにと快く応じたが、もう少し外れた場所ではいけなかったか。妙に生々しかった。

法隆寺西園院上土門(あげつちもん)。現在は檜皮葺だが、元々土が載っていたのだろうか。

法隆寺南大門の向こうに中門。人が大勢写っているが、珍しくピントがきれいだったので。

法隆寺iセンターを初めて訪れた。Googleマップに投稿されている写真の中に、夢殿の模型を見つけたので楽しみにしていたが、昨秋撤去されてしまったそうだ。
柱は法隆寺金堂の入側柱(いりがわばしら)の原寸。西岡常一さんの弟子で小川三夫さんの制作だそうだ。胴張り(エンタシス)が最も膨らんだ部分より上のカットモデルだそうだ。

2階は西岡常一さんの常設展示。塔のつくり方を図解したパネルや、大工道具や法被などが展示されていた。このノートは西岡常一さんのものなのだろうか。右ページには金堂、左ページには廻廊と書かれているが、金堂の石段の数や配置から察するに、薬師寺の図面だろうか。

一番の見ものはこれだろうか。西岡常一作と伝わる厨子だそうだ。
ガラスケースの背後に見えるのは吊構造の廊下。広くないのに吹き抜けている。設計者のエゴなのか、それとも開設当初は背の高い展示物でもあったのか。西岡さんの展示は画像の右に切れている壁面のみで物足りない。すべて床であればもっと展示できるのに。
人がいなかったこともあるが、施設が活き活きとしていなかった。ソフトが魅力的に見えないのは、照明がよくないからだろうか。老眼にも優しくない。法隆寺iセンターという名称もいかがなものか。iはインフォメーションのことだろうが、略さなくてもよかった。

花まつり供養会

浄土寺の塔頭歓喜院のツイートに目が留まった。『花まつり供養会』という法事が行われるそうで、普段は閉じている国宝浄土堂正面の扉が開くそうだ。文章が理解できず、お堂へ入れてもらえるかどうかわからなかったが、扉が開いた状態だけでも見てみたいと訪れた。

普段はひっそりしている浄土堂が、この日は何だか華やいで見えた。曇り空も一役買っているのだろう、褪せた部分はトーンを落とし、扉の鮮やかな朱色が際立っていた。

中央扉の前に花御堂が置いてあった。釈迦の誕生日は4月8日とされているが、旧暦なので、月遅れのこの日に灌仏会(かんぶつえ)を行う寺院もあるようだ。こちらでは、檀信徒の供養会と合わせて年中行事とされているようだが、浄土堂に礼服姿の方が大勢いる風景は新鮮だった。
中を覗くと、阿弥陀三尊の前で僧侶が読経をしていた。複数の焼香台と、胡坐(あぐら)などの椅子がたくさん並んでいた。左扉のほうに檀信徒、右扉のほうに一般供養の受付があった。供養が済むと、経木塔婆を受け取り、浄土堂の正面にある地蔵菩薩の前で水向けをしていた。
一般供養の受付に話すと入れてもらえたので、邪魔にならないよう端に座った。正面から光を受けた堂内や阿弥陀三尊は、普段とは異なりはっきりとくっきりと拝観することができた。

軒丸瓦と軒平瓦に南無阿弥陀仏の文字。他では見たことがない。何か謂れがあるのだろうか。
次の目的地は生石(おうしこ)神社。ようやく訪れることができる。ルートを検索すると、神戸電鉄はダイヤが合わなかったのか、小野市役所まで歩き、らんらんバスに乗り、JR市場(いちば)駅へ行くルートが一番のようだったが、JRへの乗換時間が5分しかないので心配だった。

バスは時間通りに市場駅に到着。でもJRが遅れていた。1時間に1本のダイヤでなぜ遅れるのかわからなかったが、出発してすぐに理解した。徐行運転をしていた。線路盤に相当の雨水を吸い込んでいるとのことだが、徐行するほどなのだろうか。JR西日本はすっかり臆病になった。

JR宝殿駅から少し進んだ交差点。遠くに見える山が生石神社のある宝殿山だが、これほど長く抜けのよい直線は初めて。県道393号だそうだが、1947(昭和22)年の空中写真でも変わっておらず、田畑のなかを一直線に結んでいる。宝殿駅は1900(明治33)年、国鉄の前の山陽鉄道の時代に開業したそうだが、この道路は鉄道利用の参詣者のためにつくられたのだろうか。

生石神社が見えてきた。遠景を撮影したいが道路からでは角度が悪いので、神社に正対する運動公園に入った。地図アプリを見ながら体育館まで来ると、植込に「ブライダル都市・高砂」の標識。ハッとした。新郎新婦のいる雛壇を高砂というが、この地のことだった。結婚披露宴で謡われる『高砂』が由来だそうだが、それをつくったのは世阿弥だそうだ。

体育館に隣接する相撲場の奥へ進むと、生垣の向こうに社殿が見えた。アンテナ塔が入ってしまうが、ここが遠景のベストビューポイントではないだろうか。この後生垣を乗り越え道路へ出たが、うまい具合に樹木に隠れていた建物や電線が露わになってしまった。

県道393号へ復帰し、法華山谷川を渡ると宝殿山の麓に突き当たったが、左を見ると県道393号が続いていた。傾斜路なので、滑らないよう石を荒く並べた舗装になっていた。

しばらく進むと鳥居が現れたが、何だかみすぼらしかった。手入れが行き届いていないように見えた。石段は100以上ありそうだが手摺がない。表参道は別にあるのだろうか。
右の石には「違い矢」、左の石にも「三本矢」が彫られていた。元々1つの石として竜山の山腹にあったが、砕石作業で崩れ落ち割れてしまい、ここへ移されたのだとか。
石の謂れは不明だそうだが、あるブログに書かれた考察では、竜山石が藩の専売品となった記念に、家老河合寸翁の功績を称えつくられたのではないか。河合寸翁とは、木綿や竜山石などの専売で利益を上げ、藩の負債完済を成し遂げた偉人で、河合家の家紋は「鷹の羽」だそうだ。

2/3ほど上ると道路と交差した。県道392号だそうだが、393号共に何だか面白い。上部の建物は展望施設のようだが、『播磨国石寳殿社真景』という古絵図では拝殿と書かれている。

石段を上りきった平場。右が拝殿で、左は前殿、その奥が本社。『播州名所巡覧図絵』という古絵図に前殿は描かれていないので、後に建てられたのだろう。それなら拝殿は正しいのか。
前殿は割拝殿の形式になっていた。本社も、中央は奥にある石宝殿へ進むための通路になっていて、その両側に大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二柱が祀られていた。

石宝殿と呼ばれる巨石。ご神体だそうだ。幅6.5m×奥行5.6m×高さ5.7m、重さは推定465t。足元には雨水が溜まった池。その周りを歩けるようになっていた。奥に見えるのは本社。
上述の二柱がこの地に石の宮殿をつくろうとしたが、未完成のまま夜が明けてしまったので、二柱はそのままこの地に鎮座することになった、というのがこの神社の延喜で、実際のところは、形状からして石棺をつくっていたのではないか、という説が有力とのこと。

本社の横には山上公園登口。床面はどこも岩盤。階段も岩盤を加工してできていた。

石宝殿を囲うように玉垣が並び、その周りを歩くことができた。石宝殿は、江戸時代に隣の竜山と共に名所として名を馳せたそうで、シーボルトも参詣したようだ。著書『NIPPON』に図版が掲載されている。歌川広重は『山海見立相撲』に、播磨龍山として描いている。

背面より石宝殿と本社を見る。先に広がるのは播磨平野。少し振れるが、180km向こうに神宮がある。登口に神宮大麻ののぼりが立っていたので、興味を覚え調べてみた。

山上公園。一面の岩盤と東屋。石碑には「大正天皇行幸之跡」の文字。ここから軍事演習を観閲するために登ったそうだが、皇太子の頃だったそうなので、記述は正しくない。

帰りは反対側から下山。遠くに見える山が竜山で、白い岩肌は昔の採石の跡だそうだ。
竜山石の歴史は古く、古墳時代には有力者の石棺に、鎌倉時代や室町時代には石仏や五輪塔に、江戸時代には姫路城や明石城の石垣に、近代では吹上御苑や国会議事堂に使用されたそうだ。
2014(平成26)年に『石の宝殿及び竜山石採石遺跡』として国史跡に指定されたそうだ。

生石神社を後にし、向かったのはゴリラ岩。画像中央に、右を向いたゴリラの横顔。
現在は削除されているが、地図アプリで神社周辺を散策していて見つけた。画像が投稿されていたが、撮影場所の記載がなく、ネットを検索してもわからなかった。でも昨日改めて検索してみると、最近投稿されたブログ記事を見つけた。撮影場所やルートが書かれていた。

法華山谷川沿いを歩いていると、護岸に階段が設けてあった。メンテナンス用かと思ったがそれだけではないようで、説明板が立っていた。昔ここには竜山石を運ぶ船着場があったと伝えられているそうで、護岸を改修した際、旧水路で使用された石を用いて復元したそうだ。
よく見えないので対岸へ回った。茶色く見える部分がそのようだ。頭が出ている棒状のものは立柱石で、川を堰き止める時、板を落とすためのガイドだったそうだ。

船着場の遺構から目線を上げると、シン・ゴリラ岩があった。ちょうど同じ場所だった。
先のゴリラ岩についての投稿ページに、関連記事として挙がっていた。こちらのゴリラは左向き。顔はおろか、縦長の頭部や盛り上がった肩、体全体まで表現されていた。

Microsoftアカウントですべてをまとめる

エクセルを起動するとメッセージが出現。邦訳が下手なのか、読解力が足りないのか、文章が理解できない。先日デスクトップへ出現した検索窓といい、何か変更を加えたのだろう。
放っておこうとしたが、詳細情報をクリックしてしまった。「Microsoftがアカウントデータを使用してエクスペリエンスを向上させる方法」の項目に、「サインイン時にMicrosoftが利用できる有用な情報とエクスペリエンスのカテゴリをいくつか次に示します」として、

  • 保存されたアカウントの詳細
  • アドレスやパスワードなどのオートフィル情報
  • Microsoft Edgeのお気に入りと閲覧の履歴
  • OneDriveファイルとおすすめファイル
  • 連絡先
  • 保存された設定と基本設定

を挙げているが、いずれも純然たる個人情報。それなのに、マイクロソフトはこれらの情報を勝手に利用できると言っているのか。難しい言葉を並べ立て煙に巻いて。

ものが先で思想はあと

大阪日本民芸館で、学芸員による講座『はじめての「民藝」』を受講した。民藝に興味を覚えて久しいが、いまだ理解が及んでおらず、教えを乞うことにした。

黄金の顔を眺めていて思い出した。太陽の塔公開にあたり、「建築物」とするため機械排煙設備を設置したが、排煙口は目立たないよう黄金の顔の裏に設置したそうだ。アップを撮ってみたが、黒い太パイプの下に四角い蓋のようなものが見える。これがそうだろうか。
久しぶりに太陽の塔公式サイトを覗くと、撮影条件が変更になっていた。これまでは落下防止のため1階でしか撮影できなかったが、500円で借りるスマホケースに入れれば、階段の上からでも撮影できるようになったそうだ。これで天井や腕の中、生き物のアップを撮影できる。

大阪日本民芸館を訪れる前に寄り道をした。大阪万博の時につくられたイサム・ノグチの噴水作品が残されている。昨日イサム・ノグチに触れたので、久しぶりに見たくなった。
はじめて見た時から噴水は止まっていたが、10年前に噴水機能と可動部分を取り外し、オブジェとして再生する工事が行われたそうだ。当時を知る方に指導を仰ぎ色彩を復元したそうだが、それならいっそのこと噴水機能と可動部分も復元すればよかった。
噴水に近づけないよう柵を設置すれば、サイクルボートは営業を続けられるだろう。間近に噴水を見ることができるし、夏は清涼を求める人で行列ができるかもしれない。

灰色と黄色の半球体は『宇宙船』。潜ったり浮いたりし、浮いている時に水を噴き出していた。背の高い立方体は『彗星』。底から滝のごとく水が流れ落ちていた。背の低い立方体は『コロナ』。底に加え壁からも水を噴き出していた。青い円柱は『星雲』。壁じゅうから水を噴き出していた。灰色の交差した円は『惑星』。回転しながら円の小口から水を噴き出していた。これらに加え、渦を発生させる装置が水中に3基設置されていたそうだ。

もう1つの作品は『月の世界』。他とは毛色が異なり噴水機能も可動部分もなかったようだ。
画像の右に切れている所には駐車場があるが、当時は万国博美術館や水盤があったそうで、その水盤に設置されていた。水面に固定され、周囲から噴水を浴びせかけられていたようだ。
ところで、岡本太郎を大阪万博へ呼んだのは丹下さんだが、イサム・ノグチを呼んだのも丹下さんだそうだ。2人の出会いは1950(昭和25)年。イサム・ノグチは個展のために来日していた。丹下さんは前年勝ち取った広島平和記念公園の仕事をしていたが、慰霊碑のデザインが決まらなかったので、イサム・ノグチへ参画を要請。でも彼はアメリカ人の血を引いている、と岸田日出刀ら建設委員会が難色を示し、結局丹下さんがイサム案を活かすデザインで案をまとめた。
その後イサム・ノグチは牟礼にアトリエを設け、日本でも彫刻作品をつくるようになる。丹下さんとの交流も続いていたようで、大阪万博で再び丹下さんから参画を要請され、広島で叶わなかった協働を実現することができた。しかもその作品は現在も残されている。

時間が来たので大阪日本民芸館へ。受付で講座受講の旨を伝えると、会場である会議室へ案内された。これまでに聴講した講演の会場は、国立民族学博物館のセミナー室だったので、大阪日本民芸館にもそのような部屋があるのか、どこにあるのだろうと興味津々だった。
本講座は1回完結ではなく、春と秋に開催され、それを2年にわたり計4回で完結するそうだが、そのようなことはどこにも書いていなかった。この日はたまたま『第1回 柳宗悦と民藝運動』だったが、3回目だったらどのなっていたのか。どこから受講してもよいのだろうか。
初めに柳宗悦著『民藝四十年』を紹介。この本からの引用があるそうだが、そもそもこの本は柳宗悦の入門書としても適しているそうだ。改めて目次を見ると、朝鮮、木喰上人、雑器の美、工藝の美、大津絵、民藝の趣旨へと続き、柳宗悦の美の思想が年代順に収められている。

民藝という言葉は、仮に設けた言葉に過ぎない。お互に言葉の魔力に囚われてはならぬ。特に民藝協会の同人は、この言葉に躓いては相すまぬ。この言葉によって一派を興した事にはなるが、これに縛られては自由を失う。もともと見方の自由さが、民藝の美を認めさせた力ではないか。その自由を失っては、民藝さえ見失うに至るであろう。(中略)
それで、民藝を見る眼も、その「さわりなき心」の眼でなければならない。民藝趣味などに囚われたら、本当の民藝はもう見えなくなる。眼が不自由になるからである。もともと私どもは、 民衆的作品だから美しい等と、初めから考えを先に立てて品物を見たのではない。ただじかに見て美しいと思ったものが、今までの価値基準といたく違うので、後から振り返ってみて、それが多く民衆的な性質を持つ実用品なのに気づき、総称する名がないので、仮「民藝」といったまでである。

柳宗悦「改めて民藝について」『民藝四十年』岩波文庫1988(1958)

上記が引用部分。後記も1958年に書かれ病床にてとあるので、これも病床にて書かれたのかもしれない。3年後に亡くなったが、言葉を生んだ者としての責任を全うしたかったのだろうか。