夏の邸宅

この夏、東京都庭園美術館で舟越桂さんの個展を見た。彼の作品を観るのは久しぶりで、会場が東京都庭園美術館とあれば、期待に胸膨らまさずにはおれなかった。ホワイトキューブでなくアールデコに彩られた空間で、彼の彫像がどのように作用するのか楽しみだった。
奇跡の展覧会と評されていたが、まったくそのとおりだった。空間と彫像が響きあい、調和し、まるで昔からそこに住んでいる人のように佇んでいた。書庫に置かれた『夏のシャワー』はまるでこの洋館の管理人のようで、書斎に置かれた『森へ行く日』はさながら番人のようだった。
最も印象的だったのはバスルームに置かれた『言葉をつかむ手』。窓から射し込む光が青い縞模様の入った大理石の壁に反射し、ぼんやりした空気となって部屋を包んでいる。そこに据えられているのは凛とした表情の裸体の女性。その瞳は艶めかしく、鏡に映った姿にドキドキした。
ほかにも、社会性を帯びた新作のスフィンクスシリーズがよかった。新しい境地を見ることができて、これからの仕事がますます楽しみになった。
先日、本展の図録というべき本が出版された。展覧会の模様を撮影したものだが、観たときの記憶がまざまざとよみがえった。会場がホワイトキューブだったらそうはならなかっただろう。

IKEA Debut

自転車に乗ってIKEAへ。うちから直線距離で2キロしかないが、海や川に阻まれているのでぐるっと遠回り。ママチャリより小さなタイヤで片道50分。ちょっとした運動になった。
はじめてのIKEA。店内はとても広く、迷わないように順路が敷かれている。インテリアを装うのに不慣れな人のためか、いろんなテイストの小部屋が用意されている。同じ商品がうず高く積まれたワゴンは、さながらバナナのたたき売りのよう。最後のコーナーは、3階建てくらいの高さの空間に、巨大なスチールラックが並び、組立家具などが満載されている。上の商品をどのように取るのだろうと思ったら、ポールがものすごく長いフォークリフトが据わっていた。レジは配送センターのようなベルトコンベア方式。異国にいるかのようだった。
商品はニトリやホームズと変わらないが、北欧発祥のお店。まるでセンスが異なる。たとえば本日の目当てはカーテンとカーテンレール。ワイヤーを張りハトメカーテンを吊りたいと考えていたが、ニトリやホームズではこのようなものは売っていない。

捧げる

運転免許証の更新の帰り、敷地内にある献血ルームののぼりが目にとまった。
献血をしてみたいと思いながら、あの空間の空気にうまく入り込めずにいた。目に見えない結界が張ってあるような気がした。でも今日はじめてその門をくぐった。
気持ちがそうさせたのだろうか。部屋を出るとき空は灰色に覆われていたが、新しい免許証をもらうころには雲ひとつなく、とてもよく澄んだ青色に変わっていた。微かに吹く風は少し冷たく、秋の気配があたりを包んでいた。
あるいは、最近知人が他界したせいだろうか。社会に出てはじめての仕事で知り合い、それから何度となく世話になった方。彼の死と直接のつながりはないし、彼が導いたわけでもないだろうが、彼の死によって気持ちが動いたのかもしれない。だから門をくぐることができた。

簡素でよい

洗濯機を新調した。いま使っているものは社会に出てはじめて買ったもので、かれこれ15年は使っている。一度も壊れていないし、まだ使えると思うのだが、いま暮らしを一新すべく進行中で、粗大ゴミが増えることにためらいながらも、十分に使ったのだと言い聞かせた。
家電の技術は日進月歩だが、洗濯機はすでに成熟したものと考えていた。ところが電気屋さんへ行くと、乾燥機能つきは当たり前、斜めドラムや横ドラム、ビートウォッシュにAgイオン。技術開発に終わりはないのだと思い知らされた。
どれにすればよいのかわからず呆気にとられていると、店員が話しかけてきた。「いまの洗濯機は選ぶのに大変でしょう」「そうですね。途方に暮れてしまいます」いま使っている洗濯機の機能で十分。できればステンレス槽と浴室ポンプがあればいいと伝えると、「それで十分です。メーカーはやれ乾燥機能や斜めドラムと頑張りますが、機能があればあるだけ壊れやすい。そんなものに10万円も払うのは馬鹿げています」そう聞いた途端胸の内がすうっと軽くなった。
家事が楽になるのはよいことだが、なんでもかんでも機械に頼るのはいかがなものか。洗濯物は天日で干すのがよいに決まっていて、機械で乾かした衣類は縮むのではないかとハラハラする。斜めドラムや横ドラムは壊れやすいという話を耳にする。
結局、標準スペックとなってしまった申し訳程度の乾燥機能とステンレス槽、浴室ポンプがついただけの簡素なものにした。これでまた15年くらい頑張ってくれるだろう。
余談だが、いまはどこのお店もポイントカード制になっていて、まけてもらう楽しみが減った。ポイントカードは客を囲うためのものなので、カードを持たない一元さんには冷たい。あるお店で見たPOPがそれを物語っていた。商品にはPOPが2枚貼ってあり、一方はポイントカードを持つ客向きで、29,800円とポイント11%つき。もう一方はポイントカードを持たない客向きで、値段は同じく29,800円。同じ値段なのだから、ポイントカードを作ったほうが得だと店員は勧めるが、いらないのでその分負けてよと返したところ、そっぽを向いて行ってしまった。

How Beautiful

いまユニクロのCMで流れている曲を歌っているのは土岐麻子さん。好きなヴォーカリストだ。
ジャズカヴァー集を出したかと思えば、オリジナルでは良質のポップスを聴かせてくれる。どんなジャンルでも取り込んで、咀嚼してアウトプットする。
彼女の歌声がよい。テクニックのことはわからないが、彼女にしか出せない雰囲気。冷たいものと温かいもの両方を備えているような、声の波形に抑揚がなくてフラットで、自分が歌っていることに陶酔していないような歌声。
そのせいかどうか知らないが、彼女は多くのCMに声で出演している。最近のものでは、壇れいさんが出演している日産TEANAのCM。Bill Evans Trioの『Waltz For Debby』にオリジナルの詞をつけて歌っている。こちらもとても素敵。
このユニクロのCMのディレクターは、ウェブデザイナーの中村勇吾さん。メリノウールのセーターで景色を作り、そのあいだを浮遊していく世界感を表現したそうだが、このシーンなどとても美しい。東山魁夷さんの『残照』を見ているようだ。

トニー滝谷

市川準監督が亡くなった。先日はじめて監督の作品『トニー滝谷』を見たところだった。
映画のことはサントラで知った。CDショップで目にしたジャケット。村上春樹さんの原作と知らず、『トニー滝谷』とは変わったタイトルだと思ったが、タイトルが素敵なカリグラフィーで描かれていて、不思議な空間に佇む宮沢りえさんとイッセー尾形さんが気になった。
坂本龍一さん曰く、Miles Davisの『死刑台のエレベーター』に触発されたそうだが、たしかに一音一音を探りながら、微かな旋律と余白を紡いでいた。
村上さんの小説を映像化することは難しいと言われているが、このサントラが原作の温度や繊細さをくみ取った映像から生まれたものだとすれば、監督はみごと映像化に成功したということだろう。実験的な舞台や徹底した構図。主人公二人だけの芝居。ひとりは役を知り尽くした役者、もうひとりはまるで役を知らないかのように振る舞う役者。どちらもうまい。はかなくて切ない物語だが、原作と異なるラストが温かく、未来へつながる余地を残している。
村上さんの金字塔である『ノルウェイの森』が、トラン・アン・ユン監督によって映画化されるそうだ。ユン監督の作品は好きだが、さてどのような映像となるだろうか。