北山十八間戸

先日奈良監獄を見学したあと、東大寺の方へ歩いていて魅力的な建物に遭遇した。道路に沿って細長く、丸瓦に漆喰壁、等間隔に並んだ建具。石碑に『史跡北山十八間戸』とあったので、その場でネットを検索すると、ハンセン病患者の療養施設だったそうだ。
忍性という弱者救済に尽力した僧が1243(寛元元)年につくったとされ、そこから北にある般若寺の近くに元々建立されたそうだが、1567(元禄10)年東大寺大仏殿の戦いで被災。1693(元禄6)年に再建されたが、寛文年間に現在の場所へ移され、昭和初期まで使用されていたそうだ。
家に戻ってさらに調べていると、ある方のブログに訪問記があり、屋内や道路と反対側の写真が掲載されていた。昨秋開催されたイベントで特別公開されていたようだ。他の方のブログには、隣の飲食店へ事前に連絡をすれば、見学させてもらえると書かれてあったが、イベントについて検索してみると、今年も開催されるということだったので、今日まで待っていた。

西面。奥行は約4mだそうだ。簡素な構造体が漆喰壁に映えている。

北面。間口は約38mだそうだ。名称の十八間戸は間口の長さからきている。
なぜこれほど道路に寄せたのだろう。南側に少し余裕があるので、せめて人が通行できるまでセットバックしてもよかったと思うが、そうしなかった理由は何なのだろう。

リズミカルなファサードはプランや構造から決まっているのだろうが、恣意はなかったのだろうか。というのは、よく見るとすべての建具に『北山十八間戸』と彫られていたから。施設を知らせるためであれば、すべての建具に彫る必要はなかったはず。
そもそも施設名称は『北山十八間戸』だったのだろうか。病気の性質からしても名称などついていなかったはず。ということは後から名づけられ、彫られたということ。

東面。こちらの壁は板で覆われていた。軒の上がった部分は仏間だった。

南面。北面(道路側)と同じファサードだが、柱の間に縦材が見られる。北面と異なり、露わになっている姿を見ると、つくづく法隆寺の妻室に似ていると思う。

味わいのある垂木。建具上枠に取り合う壁は、アールをつけて塗り回されている。

右の開口が見学の出入口。奥は仏間。忍性の肖像画や、僧侶がたくさん写っている写真が置いてあったが、2017年に忍性生誕800年の法要がここで営まれたようだ。

二間で一部屋となっていた。間に仕切りを立てて使用されていたそうだ。
北面(道路側)の壁には横材が見られるが、南面には見当たらない。先の縦材もそうだが、同じ構成でよいはずの南北面が、少しづつ異なっているのはなぜなのだろう。
部屋と部屋の間の建具上枠と壁の取り合いも、屋外同様アールをつけて塗り回されており、戸尻側は付枠へ塗り下げられていた。はじめて見たので新鮮だった。

右隣りに間口一間の屋外通路があるので、この部屋は間口が一間しかないが、天井もこの部屋だけ網代天井なので、患者の部屋ではなかったのだろう。屋外通路の北面(道路側)には引き違い戸があるので、それが出入口だったとすれば、この部屋は待合などに使用されていたのだろう。
現在の建物の配置では、引き違い戸は無用の長物となっているが、昔道路はなかったのかもしれない。あるいは、元々建っていた場所でのプランのまま再建したのかもしれない。

最後は、デジイチを構えたおじさん達が群がっていたポイントから。最奥に仏間が窺える。

道路を挟んで建つのは『奈良阪計量器室』。1922年の水道創設時につくられた施設で、木津川浄水場からの送水量をここで測定していたそうだ。2017年土木学会選奨土木遺産に認定。

他のイベント会場にも立ち寄った。こちらは『北山十八間戸』から300m南にある『珈琲や かじせん』。明治後期に西田千太郎という鍛冶職人が建てた工房兼住居だったそうだ。
見どころは屋内。小屋組に、当時一般には普及していなかったキングトラスポストを採用している。旋盤用だったという滑車などもそのまま残っていて、わくわくする空間だった。
画像に写るトラス組のフレームは壁の下地だった。Googleストリートビューを確認すると、過去に撮影されたものが残っていた。いわゆる『看板建築』だったようだ。

次は『旧細田家住宅』。切妻で、草葺と瓦葺が組み合わさったこの様式を『大和棟』というそうだ。草は麦わらを使用していたそうだが、現在は入手困難なので茅を使用しているとか。
今和次郎などが『大和棟』と名づけたそうだが、昔は『高塀(たかへえ)造』と呼ばれていたそうだ。画像ではわからないが、向こうの妻側は、かまどのある部分で棟が低いので、低い棟と高い棟の間に壁ができるが、その壁のことを高塀と呼ぶのだとか。

かまどの上の梁は「煙返し」。でも実際はあまり役に立っていなかったのではないか、とたまたまいらっしゃった先生がおっしゃっていた。このお宅は農家だったが、町家にこのような梁はないそうだ。そういえば奈良の町家を訪れたことがなかった。
レクチャーしていただいている最中発見があった。何気にかまどの釜の木蓋を開けたところ、中にもう一枚金属の蓋があったのだが、それは蒸し調理のためのものだろう、と先生。奈良市役所の方もいらっしゃったが、はじめて気づかれたようだった。

次は『武蔵野美術大学奈良寮』。こちらも大和棟だが、見せ場である妻側が塞がれてしまっているので美しさは半減。35年前に改修復元しているそうで、草葺はきれいな状態。
このお宅は、国宝や重文の仏像修復に尽力した新納忠之介(にいろちゅうのすけ)さんの旧宅だそうで、後に武蔵野美術大学へ譲渡。古美術研究のための宿舎として活用しているそうだ。
新納さんは、東京美術学校へ入学し、卒業後は助教授の職に就いていたが、岡倉天心が校長を辞めると後を追い、次に天心がつくった日本美術院第二部の所長を務めた。その第二部というのが現在の『美術院』。100年以上にわたり文化財の修理に携わっている。

土間を抜けると広い中庭。広縁のあるところには管理人が住んでいるのだろうか、ちゃぶ台を前に小さな子供とお母さんらしき方がいた。並んでいる蔵の入口の足元にある溝について、ネズミ返しの板を挿すのだとそのお母さんがレクチャーしてくれた。

駅への帰り、人混みを避けるため大通りを外して歩いていたら、奈良女子大学の前へ出た。はじめて見たが、ロマンティックで可愛らしい門。奥に見える記念館ともに重文だそうだ。

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