最近閲覧した場所

PCブラウザ版Googleマップに、「最近閲覧した場所」なる機能が追加された。
検索窓に室生寺と入れて検索したところ、お気に入りを示すハートマークが見当たらない。拡大すると、ハートマークの上にグレーのピンマークが被さり、「最近閲覧した場所」の文字。
それだけでなく、画面の下にタブが現れ、閲覧しただけずらりと並ぶ。タブをなくすには、一つ一つ×で消すか、右端の「非表示」をクリックしなければならない。
このような機能は必要ないので、設定で使えないようにしようと思ったが、どうやらできないようだ。項目が見当たらない。ロケーション履歴をオフにしてもダメだった。
諸手を挙げて喜んでいる人はどれだけいるのだろう。すぐに元通りにしてほしい。

ジェンダーレス

ネットニュースに、”無印良品が1年ぶりに「スカート」を発売。脱「天然素材・ジェンダーレス」で客離れに歯止め”との見出し。来年の春夏衣料の展示会を受けての記事のようだ。
無印良品のパジャマのサイズが、「S〜M」「L〜XL」の2サイズになってしまったことを前に書いた。無印良品へ理由を問い合わせたが回答はなく、ネットを調べてもわからなかったのだが、「ジェンダーレス」によるものだった。男女兼用の商品に適用されていたそうだ。
社会的、文化的性差をなくすことを「ジェンダーレス」、それを体現したものが「ジェンダーレスファッション」だそうだ。前者は言葉だけ知っていたが、後者ははじめて耳目に触れた。
若い男性のファッションでずっと気になっているスタイルがあったのだが、それがまさしくジェンダーレスファッションだった。上下とも同色同素材でルーズシルエット。色は淡く、素材はテロンとした化学繊維。はじめて見た時はパジャマを着ているのかと思った。
ジェンダーレスファッションの流行は、世界のハイブランドから町の洋品店に至るまで広がっているそうだ。無印良品も昨年その波に乗り、アイテムの半数を男女兼用にすると意気込んだそうだが、受け入れられなかったということだろう、売上が減少してしまったそうだ。
単に衣服の流行なら1シーズンで廃れるが、ジェンダーレスファッションの流行はそう簡単に廃れないかもしれない。でもそのファッションを身に着けるのは若者だけなのだから、他の多くの年代に対しては、これまで通りオーセンティックな製品を提供してほしい。女性のファッションの傾向はよく知らないが、スカートをやめるなどあってはならないのではないか。
良品計画の現在の社長は、ファーストリテイリングで取締役を務めていた方だそうだが、ユニクロと無印良品では哲学が異なるのだろうから、土台無理があるのではないだろうか。

北山十八間戸

先日奈良監獄を見学したあと、東大寺の方へ歩いていて魅力的な建物に遭遇した。道路に沿って細長く、丸瓦に漆喰壁、等間隔に並んだ建具。石碑に『史跡北山十八間戸』とあったので、その場でネットを検索すると、ハンセン病患者の療養施設だったそうだ。
忍性という弱者救済に尽力した僧が1243(寛元元)年につくったとされ、そこから北にある般若寺の近くに元々建立されたそうだが、1567(元禄10)年東大寺大仏殿の戦いで被災。1693(元禄6)年に再建されたが、寛文年間に現在の場所へ移され、昭和初期まで使用されていたそうだ。
家に戻ってさらに調べていると、ある方のブログに訪問記があり、屋内や道路と反対側の写真が掲載されていた。昨秋開催されたイベントで特別公開されていたようだ。他の方のブログには、隣の飲食店へ事前に連絡をすれば、見学させてもらえると書かれてあったが、イベントについて検索してみると、今年も開催されるということだったので、今日まで待っていた。

西面。奥行は約4mだそうだ。簡素な構造体が漆喰壁に映えている。

北面。間口は約38mだそうだ。名称の十八間戸は間口の長さからきている。
なぜこれほど道路に寄せたのだろう。南側に少し余裕があるので、せめて人が通行できるまでセットバックしてもよかったと思うが、そうしなかった理由は何なのだろう。

リズミカルなファサードはプランや構造から決まっているのだろうが、恣意はなかったのだろうか。というのは、よく見るとすべての建具に『北山十八間戸』と彫られていたから。施設を知らせるためであれば、すべての建具に彫る必要はなかったはず。
そもそも施設名称は『北山十八間戸』だったのだろうか。病気の性質からしても名称などついていなかったはず。ということは後から名づけられ、彫られたということ。

東面。こちらの壁は板で覆われていた。軒の上がった部分は仏間だった。

南面。北面(道路側)と同じファサードだが、柱の間に縦材が見られる。北面と異なり、露わになっている姿を見ると、つくづく法隆寺の妻室に似ていると思う。

味わいのある垂木。建具上枠に取り合う壁は、アールをつけて塗り回されている。

右の開口が見学の出入口。奥は仏間。忍性の肖像画や、僧侶がたくさん写っている写真が置いてあったが、2017年に忍性生誕800年の法要がここで営まれたようだ。

二間で一部屋となっていた。間に仕切りを立てて使用されていたそうだ。
北面(道路側)の壁には横材が見られるが、南面には見当たらない。先の縦材もそうだが、同じ構成でよいはずの南北面が、少しづつ異なっているのはなぜなのだろう。
部屋と部屋の間の建具上枠と壁の取り合いも、屋外同様アールをつけて塗り回されており、戸尻側は付枠へ塗り下げられていた。はじめて見たので新鮮だった。

右隣りに間口一間の屋外通路があるので、この部屋は間口が一間しかないが、天井もこの部屋だけ網代天井なので、患者の部屋ではなかったのだろう。屋外通路の北面(道路側)には引き違い戸があるので、それが出入口だったとすれば、この部屋は待合などに使用されていたのだろう。
現在の建物の配置では、引き違い戸は無用の長物となっているが、昔道路はなかったのかもしれない。あるいは、元々建っていた場所でのプランのまま再建したのかもしれない。

最後は、デジイチを構えたおじさん達が群がっていたポイントから。最奥に仏間が窺える。

道路を挟んで建つのは『奈良阪計量器室』。1922年の水道創設時につくられた施設で、木津川浄水場からの送水量をここで測定していたそうだ。2017年土木学会選奨土木遺産に認定。

他のイベント会場にも立ち寄った。こちらは『北山十八間戸』から300m南にある『珈琲や かじせん』。明治後期に西田千太郎という鍛冶職人が建てた工房兼住居だったそうだ。
見どころは屋内。小屋組に、当時一般には普及していなかったキングトラスポストを採用している。旋盤用だったという滑車などもそのまま残っていて、わくわくする空間だった。
画像に写るトラス組のフレームは壁の下地だった。Googleストリートビューを確認すると、過去に撮影されたものが残っていた。いわゆる『看板建築』だったようだ。

次は『旧細田家住宅』。切妻で、草葺と瓦葺が組み合わさったこの様式を『大和棟』というそうだ。草は麦わらを使用していたそうだが、現在は入手困難なので茅を使用しているとか。
今和次郎などが『大和棟』と名づけたそうだが、昔は『高塀(たかへえ)造』と呼ばれていたそうだ。画像ではわからないが、向こうの妻側は、かまどのある部分で棟が低いので、低い棟と高い棟の間に壁ができるが、その壁のことを高塀と呼ぶのだとか。

かまどの上の梁は「煙返し」。でも実際はあまり役に立っていなかったのではないか、とたまたまいらっしゃった先生がおっしゃっていた。このお宅は農家だったが、町家にこのような梁はないそうだ。そういえば奈良の町家を訪れたことがなかった。
レクチャーしていただいている最中発見があった。何気にかまどの釜の木蓋を開けたところ、中にもう一枚金属の蓋があったのだが、それは蒸し調理のためのものだろう、と先生。奈良市役所の方もいらっしゃったが、はじめて気づかれたようだった。

次は『武蔵野美術大学奈良寮』。こちらも大和棟だが、見せ場である妻側が塞がれてしまっているので美しさは半減。35年前に改修復元しているそうで、草葺はきれいな状態。
このお宅は、国宝や重文の仏像修復に尽力した新納忠之介(にいろちゅうのすけ)さんの旧宅だそうで、後に武蔵野美術大学へ譲渡。古美術研究のための宿舎として活用しているそうだ。
新納さんは、東京美術学校へ入学し、卒業後は助教授の職に就いていたが、岡倉天心が校長を辞めると後を追い、次に天心がつくった日本美術院第二部の所長を務めた。その第二部というのが現在の『美術院』。100年以上にわたり文化財の修理に携わっている。

土間を抜けると広い中庭。広縁のあるところには管理人が住んでいるのだろうか、ちゃぶ台を前に小さな子供とお母さんらしき方がいた。並んでいる蔵の入口の足元にある溝について、ネズミ返しの板を挿すのだとそのお母さんがレクチャーしてくれた。

駅への帰り、人混みを避けるため大通りを外して歩いていたら、奈良女子大学の前へ出た。はじめて見たが、ロマンティックで可愛らしい門。奥に見える記念館ともに重文だそうだ。

待庵と黄金の雨樋

国宝待庵を拝観。往復はがきでの申し込みが億劫で、ずっと後回しにしてきたが、国宝如庵を拝観したこともあり、ようやく重い腰を上げた。昔はなかなか予約が取れなかったと思ったが、このコロナ禍で落ち着いているのだろうか、第1希望日の拝観が叶った。

早めに山崎へ着き、離宮八幡宮を参拝。山崎は何度も訪れているが、こちらははじめて。
当神社は製油発祥の地だそうだ。社司が油をしぼるための道具を開発し、荏胡麻油を大量生産することに成功。灯明として利用し、宮廷にも献上。朝廷から独占権を認められ、社寺の灯明の油はすべて大山崎が収めることになったそうで、その後200年にわたり全盛を極めたとか。

油祖像の横の的のようなオブジェは、全国油脂販売業者共通の店頭標識だそうだ。
当神社の八幡神は宇佐八幡より遷座されたそうだが、遷座1100年大祭の施行にあたり制定されたのだそうだ。全国から公募し、嶋本昭三というアーティストの案が選ばれたそうだが、その時の審査員は早川良雄、河野鷹思、吉原治良だったそうだ。

塔心礎。飛鳥時代から奈良時代、この辺りに存在した寺院のものではないかとのこと。
画像では伝わりにくいが、長辺は2mを優に超え、心柱を据える穴の直径は1mある。東寺の五重塔の心柱は直径1mだそうなので、単純に比較すると高さ50mは超えていただろうか。水が溜まっている部分が扇形をしているのは、手水鉢として利用されていた痕跡だそうだ。

時間が来たので妙喜庵へ。玄関柱に留められた木札には、「見学御希望の方は往復ハガキで一ヶ月程前に御申込みください。団体での拝観は謝絶します」とあり、床置きの掲示板には、「妙喜庵茶室待庵(国宝)の原寸大模型が資料館に展示されていますので、拝観予約のない方は下記の大山崎町歴史資料館へどうぞ」とあった。素っ気なかったが、一々対応していられないか。

山門の扁額。東福寺の南宗流という書道の開祖の筆で、室町時代のものだそうだ。妙喜庵は東福寺の末寺だそうで、だから弓欄間がついているのだろうが、門についているのははじめて。
玄関を開けると人の列。一度につき10名程度だろうと予想していたが、ご住職いわく20名だったそうだ。通常より多いということだったが、現在は日曜日の午前しか受けつけられていないので、これくらい入れなければ捌けないのだろう。でも待合である書院や明月堂が広いので、窮屈に感じることはなかった。数名ずつ待庵を拝観し、待つ間はご住職のお話を伺った。おしゃべりが上手で柔和なご住職だった。おかげで予定を大幅に超えて滞在してしまった。
境内は撮影NGだった。昔は待庵内部以外は撮影できたようだが、現在は全域NGとされているそうだ。いつもならふくれるところだが、そのような気はまったく起きなかった。素敵なご住職と、目にするものすべてがすばらしかったおかげだろうか。待庵のすばらしさはもちろんだが、とにかく庭に魅了された。苔の生え具合や、苔に落ちる光や影がとても美しかった。
京博で待庵の模型制作のドキュメンタリーを見ていたので、炉の四隅が丸くなっていないことや、丸太柱のなぐり跡を確認したが、内部は想像より暗くはっきり見えなかった。

せめてもの物撮り。左はいただいたパンフレット。解説はもとより、歴代のご住職や待庵の寸法入り平面図も。中央は土産にと購入した冊子で550円。14ページしかないが、全ページコート紙にフルカラー印刷。写真はきれいに撮れているし、パンフレットには載っていないうんちくも。右は返信はがき。他の方は回収されていたが、記念にとお願いしていただいた。

次は石清水八幡宮を訪れるのだが、大山崎町歴史資料館で『古絵図の魅力-地図で旅する大山崎』という展覧会が催されているようなので寄り道。待庵の原寸大模型も観てみたかった。
こじんまりとした展示室にたくさんの古絵図が並んでいたが、いかんせん説明が多く、そのくせ文字が小さく読みづらいので、簡単に鑑賞し、図録を購入して終いとした。

阪急電車大山崎駅からひと駅の西山天王山駅。ここから京阪電車淀駅行きのバスに乗車。
この駅は数年前にできたそうだが、降りてみてここにつくられた理由がわかった。上を走る道路は京都縦貫自動車道だが、この上に高速バスのバス停があるようだ。神戸淡路鳴門自動車道の高速舞子バス停のように、高速バスと鉄道を接続するためにつくられたのだろう。上述のバス路線も駅開業に合わせて運行を開始し、阪急電車、JR、京阪電車の各駅を結んでいるそうだ。

石清水八幡宮駅から山頂へは金ピカの『こがね』号に乗車。令和元年に車両デザインをリニューアルしたそうで、石清水八幡宮の『阿吽の鳩』になぞらえられているとか。フロント中央のトレードマークは、『阿吽の鳩』と神紋の『流れ左三つ巴』をかけ合わせているそうだ。

石清水八幡宮を訪れたのは特別公開を見学するためだが、それに合わせてだろうか、重森三玲作の書院石庭も公開されていた。前に来たとき観れなかったので、ちょうどよかった。

説明がなかったので帰ってネットを調べると、国生み神話を表現しているのではないかと考えている方がいた。中央の小さな石がオノコロで、他の島が周りを囲む。手前の隅は見えなかったが、数は揃っているのだろうか。石燈籠は鎌倉時代のもので、重要文化財だそうだ。

受付は東門。左甚五郎の彫刻や黄金の雨樋が観られるということで、昇殿参拝との違いをたずねてみると、昇殿参拝のほうが拝観エリアが少し広いそうだ。それなら昇殿参拝のほうがよかったが、特別公開中は開催していないとのこと。そういうことはウェブサイトのお知らせ欄に書いてくれればよいが、この神社はそのあたりが不親切。お高くとまっているのだろうか。
スリッパに履き替え、廻廊を東から西へ三辺巡った。本殿は瑞籬(みずがき)に囲われているが、その上部に彫刻が施されていて、左甚五郎が彫ったとされるカマキリもあった。もうひとつの左甚五郎作といわれている『目貫の猿』は西門にあったが、よく見えなかった。
黄金の雨樋は周囲が建て混んでいて一部しか見えなかったが、金箔の鈍い輝きは見て取れた。てっきり落とし口のところだけだと思っていたが、軒樋すべてが金、銀、錫、銅の合金製で、突き出た部分にのみ金箔が貼られているそうだ。天災にあった時など修復の足しになるよう、換金を視野に入れての設えだったとか。長さ21.7m、高さ21cm、幅54cmだそうだ。

前に来たときうまく撮れなかった『信長塀』。内側の土は締め固められていないそうだ。

前に来たとき見過ごしていた『鬼門封じ』。斜めにする理由が書かれていなかったので調べると、京都御所の鬼門除けの説明には、角(かど=つの)を取って鬼を封じると書いてあった。

前に来たとき寄らなかった展望台。京都を一望できる素敵な場所だった。

植込に咲いていたホトトギス。はじめて目にしたが、斑点が気持ち悪い。

前に来たとき気がつかなかった松花堂の平面表示は、やはり中路地の遺構の奥にあった。

よく見ると室名が表示してあるが、落ち葉に埋もれて見えないものがほとんどだった。
石清水八幡宮のウェブサイトには、整備して間もない頃に撮影したと思しき写真が掲載されている。前にも書いたが、文化遺産オンラインには、同様の中路地の遺構の写真が掲載されている。どちらもとてもきれいな状態だが、現在はどうなのだ。お金のかかることではあるが、作ったのであればきれいに維持してほしい。そうでなければ段々廃れ、終いに撤去する羽目になる。

参道を相槌神社まで下ると、南へ向きを変え歩くこと25分。西車塚古墳の上に建つという六角堂へやってきた。かつては石清水八幡宮の現在の駐車場の一角に建っていたそうだが、神仏分離令のときに正法寺の所有地であったこの場所へ移されたのだとか。

八角堂は想像より大きかった。新しく見えるが、造られたのは1607(慶長12)年だそうだ。後に倒壊してしまったが、大規模修理が行われ、1698(元禄11)年に再興したのだとか。
かつて鎮座していた本尊は、高さ3mの阿弥陀如来座像で重要文化財。快慶作ではないかということだが、現在は正法寺に移されていて、特別公開のときには拝観できるようだ。

花の名を当てるアプリで山茶花と出たが、山茶花は赤い花しか見たことがなかった。

最後は一ノ鳥居の額。八が2羽の鳩でできている。特別公開会場のビデオで紹介していた。

こんど、君と @神戸

ワールド記念ホールで小田さんのコンサート。ツアー当初は組まれていなかった追加公演。
大阪公演でベースの有賀さんが腰を痛めたと言っていたが、続けられなかったようだ。吉池さんという方が代打を務めていた。髪型、眼鏡、柔和な微笑みがヨンさまのようだった。
セットリストは大阪公演と同じだったが、『夏の日』は『秋の気配』へ代わり、『水曜日の午後』は『竹田の子守歌』へ代わっていた。『竹田の子守歌』は赤い鳥の楽曲。赤い鳥が神戸出身だということや、山本潤子さんが大阪市出身だということをはじめて知った。
さらに『竹田の子守歌』は京都府の民謡で、竹田は京都市伏見区の竹田のことだと知った。そして竹田にはかつて部落があり、この歌は親が子を寝かしつける「子守歌」ではなく、奉公に出された部落出身の子供が、奉公先の子を寝かしつけるときに歌う「守り子歌」だと知った。
チケットはFAR EAST CAFÉ PRESSの会員予約で入手。前回小田和正モバイルで入手した席はスタンドだったが、今回はアリーナ。どちらも公認の組織だろうが、優劣があるのだろうか。
席はステージ横の花道の前で2列目。久しぶりの当たり席。小田さんの顔の表情まで見えた。『またたく星に願いを』ではジャンボバルーンが復活。指先がかすった程度だがはじめて触れた。

慈眼院、孝恩寺、櫻井神社

大阪府にある国宝建造物を訪ねた。地元なのに、国宝建造物探訪をはじめてすぐに訪ねなかったのは、孝恩寺の国宝建造物が修理中だったから。Googleマップに工事完了との口コミがあがったので、電話で確認してみると、次の工事があるので中には入れないが、外観だけでよければ、落慶法要後の10月以降なら見学して構わないということだった。

最初に訪れたのは泉佐野市にある慈眼院。こちらは事前予約制。行事で応対できないことがあるので予約制としている。何もなければ、希望日の2、3日前の連絡でも可とのことだった。
JR日根野駅から徒歩30分。隣接する日根野神社を先に参拝した後、鐘楼の横を通るとRC造のお堂が見えたが、庭師が作業をしていたのでスルーし、HITACHIの駒札の横をくぐり庫裏へ。呼び鈴を押すと作務衣を着た女性が現れ、拝観ゾーンへ案内してくださった。

庫裏の裏庭。あらかじめ知ってはいたが、苔の美しさに目を見張った。

門をくぐると拝観ゾーン。重要文化財の金堂。小さいながらも鎌倉時代の建築様式が凝縮。

角の組物。木鼻は拳鼻だろうか。野地板が白く塗装されているのはおそらくはじめて。

スナゴケに割って入っているのはシソだろうか。

苔むす平板ブロック。面白い光景。

国宝多宝塔。高さ10m。国内最小の塔だそうだ。日本三名塔は、法隆寺五重塔、醍醐寺五重塔、瑠璃光寺五重塔だそうだが、多宝塔では、石山寺、金剛三昧院とともに日本三名塔と呼ばれているそうだ。小ぶりゆえだろうか、上品な美しさをまとっている。

白く塗装した斗ははじめて。巻斗から肘木にかけて赤いのも。

出発する前に再び日根野神社を歩いていると、門扉越しに多宝塔が見える場所があった。
格子の間から撮影したので門扉は写り込んでいないが、肉眼ではこのようには見えない。これ以上近づくこともできないので、きちんと拝観してよかった。

次は貝塚市にある孝恩寺。電車でも徒歩でも1時間30分だったので歩くことに。

30分経過。雨山城とは情緒がある。城址からの景色がよさそうなので、いつか登ってみたい。
この辺りから阪和自動車道に沿って進む。高速道路を走るとつい沿道に目が行く。高速道路ができる前は、どのような道が通っていたのだろうと想像してしまう。

50分経過。この辺りはまだ稲刈りをしていなかった。

80分経過。阪和自動車道から離れ、人家が集まってきた。

孝恩寺到着。立派な構え。山門の向こうに見えるのが国宝建造物。

国宝観音堂。敷石の配置と正面の引きのなさによるのか、ここから撮影した写真が多い。
このお堂は元々行基が創建した『観音寺』という寺院のものだったそうだが、室町時代に戦火で他のお堂をすべてなくしてしまい、廃仏毀釈のときに考恩寺へ合併されたのだそうだ。
この辺りの地名は木積(こつみ)というそうで、行基が多くの寺院を建立するため、山から切り出した材木を集積していたことから名づけられたそうだ。

近すぎて屋根がおかしいが、正面からでも0.5倍でギリギリ撮影できた。落慶法要のときに使用されたままなのか、屋内に五正色幕(ごせいじきまく)が取りつけられていた。

堂々たる蟇股だが、蟇股は正面のみで、側面、背面には間斗束。蟇股の股の内側の意匠が5間とも異なっていた。木鼻は象だろうか、それとも獏だろうか。かわいい形をしている。
修理は100年ぶりで4年かけて行われたそうだが、来年3月にはすべて終わるそうなので、新緑の頃に再訪したい。本尊や、宝物館に安置されているという19体の仏像を拝見したい。
次は堺市にある櫻井神社。歩くと3.5時間かかるので、さすがに電車とバスを乗り継いで行く。水間鉄道から南海電鉄へ乗り継ぎ泉大津駅で下車。南海バスで和泉中央駅へ渡り、再び南海電鉄で栂・美木多駅へ。乗り換えが面倒だがこれが最短ルート。それでも2時間かかった。

通り道にある水間寺を参拝。前に来たのは子供の頃。

三重塔が建っていることなど忘れていた。江戸時代の再建だそうだ。

水間鉄道水間観音駅。三重塔を模した駅舎は、国の登録有形文化財だそうだ。

ヘッドマークがおかしい。調べると、1万円+税でオリジナルデザインのものを10日間装着してくれるそうだ。北条鉄道の鈴虫や枕木もそうだったが、ローカル鉄道は自由で遊び心がある。夏に乗ったときは、広告の代わりに子供の描いた絵が飾ってあった。

桜井古跡の横を流れる妙見川の橋の上。近づくと海老を描いた紙がずらり。その名もずばり『海老紙』だそうで、祭へ寄付した方の名前と金額が記されていた。それよりなぜ海老なのかが知りたかったのだが、ネットを検索してもよくわからなかった。なぜなのだ。

櫻井神社到着。2019(令和元)年に建てられたという鳥居。てっきり造り替えたのだと思ったら、2009年のGoogleストリートビューに鳥居はなく、1956年の航空写真にも写っていない模様。
改元を記念して設置したのだろうか。それにしてもこの大きさ。工作物申請にかからないギリギリの高さのように見えたが、ここまで高くした理由が見栄なのであれば残念。

神社にそぐわない薬医門。むかし神宮寺という寺院と習合していた名残りだそうだ。
提灯の図柄が菊花紋章なのは、祭神が天皇や皇后だから。中殿に誉田別命(ほむたわけのみこと)=応神天皇、東殿に足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)=仲哀(ちゅうあい)天皇、西殿に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后。創建は不明だが、この辺りに住んでいた桜井朝臣(さくらいのあそみ)が、祖神として武内宿禰を祀ったのが始まりだとか。

国宝拝殿。石上神宮の摂社拝殿と同じ割拝殿。ベンガラが独特な雰囲気をつくっている。
奥にある賽銭箱には張り出し屋根がかかっていたが、木材は白木だったので、おそらく後づけされた模様。このような場合国宝としてどう扱われるのだろう。後づけ部分は無視だろうか。

正面左右の開口が、蔀戸ではなく桟唐戸なのが珍しく面白い。妻面の各部配置の妙。

中央の馬道(めどう)。祭礼時には左右の格子が馬道側へ倒れ、床ができるそうだ。

祭神のせいなのか、この神社の建物には品のよさや清々しさを感じた。

休憩所に巨大な鬼面。『こおどり鬼面』だそうで、国の無形文化財に指定されているそうだ。
神社の名前が「櫻井」なので、ミスチルの桜井さんや、嵐の櫻井さんのファンが詰めかけているそうだ。たくさんの絵馬が奉納されていたが、よく見るとファンによるものも。

最後に土塔を見学。奈良の頭塔をきっかけに知り、訪れてみたいと思っていた国の史跡。
行基60歳のときの仕事。現在はす向かいにある大野寺の仏塔としてつくられたそうだ。1辺53m、高さ9m、13層のピラミッドで、屋根も壁面も瓦で覆われていたとか。頂部には円形の段があったそうなので、多宝塔のような亀腹とお堂があったのだろうと。

復元案の模型。出土した遺物から相輪は陶製だったと考えられるそうで、模型の相輪もそのように作られていたが、その遺物を見てみたい。堺市博物館で見られるだろうか。
これで大阪府の国宝建造物探訪は一応完結。他に住吉大社と観心寺に国宝建造物があるのだが、住吉大社は毎年初詣で訪れているし、観心寺は秘仏如意輪観音菩薩の拝観で一度訪れている。でも両者とも撮影していないし、古建築を見る目で見ていなかったので、近々訪れたい。