橿原神宮と明日香村

明日香村再訪は橿原神宮からスタート。境内にある文華殿と呼ばれる建物が現在修理中だそうだが、5/8まで見学できるそうなので、はじめての橿原神宮参拝を兼ねて訪れた。
前回明日香村を徒歩で回って時間が足りなかったので、今回は自転車を借りた。時間が余れば藤原京や今井町へ行きたかったので、飛鳥駅でなく橿原神宮前駅で借りた。自転車に乗るのは10数年ぶりだったが、なんだか下手になっていた。筋肉の衰えもあるのだろうか。

豪壮な外拝殿。できたのは1939(昭和14)年とまだ若い。橿原神宮の創建も1890(明治23)年だそうなので、まだ130年しか経っていない。民の請願により明治天皇がつくったそうだ。どの部分を担当したのかわからないが、設計には伊東忠太が関わっているそうだ。
イベントは『祈りの回廊』というウェブサイトで知ったのだが、特に記載がなかったので、見学は随時行うことができて無料だと思っていた。でも文華殿に着くとテントに人はおらず、工事用ヘルメットが並んでいるだけ。橿原神宮へ電話をし、外拝殿に受付があるというので赴くと、見学時間が定められていて、所要時間は1時間、初穂料2,000円ということだった。
せっかくなので参加した。まずは御幣をお供えするということで、通常入れない外拝殿の内へ。本来は内拝殿で行うそうだが、結婚式と被ってしまい、少し手前の広場でお供え。でも婚礼まで少し時間があると言って内拝殿へ案内してくれた。廻廊を通って外拝殿へ戻った。
文華殿へ向かう途中、鳥居がきれいだったので聞いてみると、2019年に改修されたばかりだそうだ。よく見ると、笠木、島木、額束は古材が再利用されていたが、気にならなかった。

ヘルメットをかぶり素屋根の中へ。瓦はすべて下ろされ、下地の杉皮が現れていた。この下地の状態を土居葺というそうだが知らなかった。瓦は見える部分は本瓦葺き、見えない部分は桟瓦葺きと葺き分けられているとか。素屋根のトラスが美しかった。

文華殿は元々天理市にあった旧織田屋形で、昭和41年に大書院と玄関を移築したそうだ。移築する前は小学校の校舎として使われていたそうだが、どのように使われていたのか気になる。
見学のあとは神武天皇陵を参拝。さすがは初代天皇、つくりが余所とは異なっていた。普通は1つだけの鳥居が3つあり、一の鳥居と二の鳥居には背の高い木製門扉がついていた。2つの鳥居の間には金属製の門扉がついていたが、桟はいつものバツ印ではなく縦桟。一の鳥居の門扉の上のほうがバツ印になっていた。材質やサイズが異なっても、最も手前の門扉はバツ印。何か意味があるのだろうか。単なる様式だろうか。ネットを検索してもヒットしない。
参拝のあとは、すぐそばにある奈良県立橿原考古学研究所附属博物館へ。

飛鳥宮の模型を見たかった。前回飛鳥宮跡を訪れたとき、一部しか整備されておらず全体をつかめなかった。ネットで図を見てもピンと来なかったので、ここなら模型があるだろうと。

様々な埋蔵品が展示されていたが、気に入ったのはこのコーナー。飾り馬の埴輪は知っているが、ほかにもいろんな動物がいた。そして飾り馬の埴輪はとても大きかった。

土産は『ASUKA BOOK』。ネットを検索してもさっぱり出てこなかったが、おそらくコクヨの野帳の特注品。カバーのイラストは飛鳥宮、インクはメタリックブルーと凝っている。
次は明日香村。最も遠いキトラ古墳から。徒歩だと1時間かかるが、自転車だと20分もかからなかった。でも古墳手前の上りはきつく、最後は自転車を降りた。情けない。

キトラ古墳は思いのほか小さかった。高松塚古墳と同じ二段式の円墳だが、直径が9m小さいそうだ。石室の壁画や出土品の保存管理を兼ねた展示施設があったが、2016年にオープンしたそうなので、展示のための設備が最新で、なかなか充実した展示内容だった。

隣接する展望台からの眺め。辺り一帯まで整備されていて、とても気持ちのよい場所だった。
上が鬼の雪隠、下が鬼の爼(まないた)。元々ひとつの石室だったそうだが、現在は丘の頂と麓で離れている。地震で転がり落ちたのだろうか。それとも伝説の鬼が動かしたのだろうか。
亀石。むかし大和が湖だったころ、対岸の当麻に湖を占領されてしまい、多くの亀が死んでしまったので、人々が亀に似せた石を彫り供養したという言い伝え。奈良盆地は湖だった。

もう一つの説は川原寺の四至、つまり境界標だったのではないか。飛鳥宮の時代、川原寺は飛鳥寺と並ぶ四大寺のひとつで、大伽藍だったそうだ。画像は川原寺跡。手前の礎石は南大門跡、その奥は中門跡、右の基壇は塔跡、最奥の伽藍があるあたりに中金堂があったとか。

酒船石。石のかたちや窪み、「サカフネイシ」のサカの音から当てた漢字のようだが、それよりブラタモリで学者が話していた「笹舟石」のほうが断然魅力的。
窪みに水を流し笹舟を浮かべ、舟がどちらへ向かうか。つまりは占い。別の道を下ると石垣の復元があるが、学者曰く、この丘は石垣で囲われた祭祀を行う斎場だったのではないかと。斉明天皇がこの石の前に立ち、笹舟を浮かべる様を想像してみた。

最後は藤原宮。Googleマップのナビを頼りに脇目も振らずこぎ続けたが、なかなかたどり着かなかった。それもそのはず場所を勘違いしていた。橿原神宮の真東にあると思い込んでいた。
天武天皇の飛鳥浄御原宮のあと、持統天皇がつくった最初の本格的な都なのに、国営の平城宮跡とは異なり広大な野原と柱の足元しかない。でも近所の方が犬の散歩をしていたり、子供たちが追いかけっこをしているのを見ると、このまま整備されないでほしいと思った。
奈良へ行く車窓から平城宮跡を見るたび、あそこまで復元する必要はあるのだろうかと思う。この3月には新たに大極門がつくられたようだが、どこまで整備すれば完了となるのだろう。近鉄の線路も移動が決まったようだが、そこまでしなければならないのだろうか。
自転車返却のリミットが近づいていたので、説明を読み写真を1枚撮っただけでおしまい。

一乗寺と書写山

書写山円教寺で杉本博司さんの展示を鑑賞。『オールひめじ・アーツ&ライフ・プロジェクト』という姫路市立美術館の企画だそうで、円教寺にある仏像と杉本さんの五輪塔を組み合わせたインスタレーション。会場となるお堂は三之院の常行堂。通常は非公開だそうだ。
書写山へ上る前に、訪ねてみたかった一乗寺へ寄り道。加西市にあるが、姫路駅からバスが出ている。この路線も本数が少ないので、先日の二の舞とならないよう早めに家を出た。

入口に山門はなく、見渡す限り伽藍もない。香炉や笠塔婆があるので寺とわかるが、香炉は焚かれておらず線香も置いていない。オブジェと化しているようだが、そんなことあるだろうか。

志納所を抜けると広場のようになっているが、この角塔婆の配置はどういうことだろう。何か意味があるのだろうか。それとも、単に石段や通路の中心に据えただけだろうか。
角塔婆の後ろに石段があるが、伽藍は石段を上った先にある。最頂部の大悲閣(金堂)までは161段あるそうで、その途中に常行堂や国宝三重塔が配置されている。

76段目にある常行堂。この寺のお堂はどれもよい具合に褪せている。

次の36段を上ると国宝三重塔。正面は引きがなく陰になっていたので、石段から撮影。
相輪の伏鉢に1171(承安元)年建立との銘があり、平安末期に建てられたものとはっきりしているそうだ。屋根の逓減率は法隆寺五重塔のように高い。前面に引きがないからだろうか。

最後の49段を上ると大悲閣(金堂)。大悲閣ははじめて聞いたが、大悲とは観音様のこころのことで、観音様を祀るお堂のことを大悲閣というそうだ。

大悲閣は懸造。外縁から見下ろした景色。三重塔の向かいは法輪堂。経蔵だそうだ。宝形造で海鼠壁、出入口に唐屋根の架かるごちゃ混ぜ建築だった。

緑に埋没するようなこの眺めはすばらしい。右手は常行堂。

奥の院の開山堂。この寺を開山した法道仙人が祀られているとか。宝形造に花頭窓。

その奥は賽の河原と名づけられた場所。大きな磐座の下にお地蔵様。せせらぎの向こうを見るとダムのようなコンクリートの壁があり、そこから流れていた。

入口に山門はないが、東西とも500mほど行ったところに古い山門があるようだ。山内をお参りしたあと見に行くつもりが時間がなくなった。バスのダイヤのせいで滞在時間が2時間もあり、消化できるか心配だったが使い切ってしまった。長居してしまう素敵な場所だった。

東隣は白漆喰塗りの塀が美しい歓喜院。一乗寺の塔頭だそうだが、国土地理院の航空写真によれば築20年程度。廃寺から復興したのだろうか。石垣はむかしからあるようだ。ちなみに、一乗寺は孝徳天皇の勅命により、650(白雉元)年に創建したとの言い伝え。

寺の前の歩道は石畳になっていて、これもこの場所の美しさの一助となっている。
一乗寺は10幅からなる『聖徳太子及び天台高僧画像』という国宝も所有しているそうだが、奈良博、東博、大阪市立美術館へ寄託しているので、寺では観ることができないようだ。
ネットを検索したところ、ちょうどいま京博の特別展で2幅が展示されているようだ。近々『神坂雪佳』展を観に行こうと思っていたので、そのときに合わせて観に行きたい。
寺宝といえば、志納所を入った広場の左側にある白漆喰塗りの建物はやはり宝物館だった。年に2日しか公開していないそうで、あとは事前に申し込めば鑑賞できるようだ。

次に向かったのは『姫路市書写の里・美術工芸館』。姫路城の大手門まで戻り、書写山ロープウェイ行きのバスへ乗り換えた。施設はロープウェイ乗場のすぐ北にある。

設計は宮脇檀さん。築30年になるそうだ。柱はなぜ朱色なのだろうと思っていたが、この建築は寺院なのだそうだ。円教寺にもインスパイアされているそうだが、よくわからなかった。

階段に泥でつくられた仏様が並んでいる。開設当初からの常設展示だそうだが、ダイナミックな空間にそぐわないと感じた。仏様をつくったのは、姫路市出身で東大寺別当を務めた清水公照さんだそうだが、この施設をつくるきっかけは清水さんの作品寄贈なのだとか。どうりで清水さんの作品が多数展示されていたが、どことなく施設を持て余している印象を受けた。

書写山ロープウェイ山上駅の展望デッキ。ロープウェイの乗車時間は約4分。
書写山には登山ルートが複数あり、優しいルートだと1時間で登れるそうなので、往復とも歩く予定にしていたが、急遽一乗寺を挿し込んだので、時間を稼ぐためにロープウェイへ変更。

志納所そばの広場にある石碑。書写山の麓に生まれた小説家椎名麟三の言葉を、親交のあった岡本太郎が書き写した。石碑の造形は、姫路で活動した画家小野田實によるそうだ。

仁王門。青もみじがきれいだが、門の存在を希薄にしてしまう。せっかくの三棟造なのに。

摩尼(まに)殿。一乗寺の大悲閣と同じ懸造だが、こちらは跳ね出しが大きく架構が華やか。摩尼はサンスクリット語で如意という意味だそうで、本尊は六臂如意輪観世音菩薩。
空が急に暗くなり、雨が降ってきた。しばらく待ったがやみそうにないので、ウィンドブレーカーのフードをかぶり、インスタレーションの行われている常行堂へ向かった。

インスタレーションは、阿弥陀如来坐像を五輪塔がぐるり取り囲むというもの。
常行堂とは、阿弥陀如来の周りをお経を唱えながら何日も歩き続ける行のためのお堂。五輪塔は僧が周回している様を表していて、歳を取り修行できない自分の代わりと杉本さん。
室内は暗かったが、場所によっては窓からの光が光学ガラスを射しプリズムをつくっていた。

阿弥陀如来坐像の後壁には来迎図が描かれていた。仏像が壁に寄りすぎて見えなかったそうだが、杉本さんが寺や文化庁へ掛け合い、四方柱の中央へ移動したそうだ。青色が多く残っていたが、むかし根津美術館で観た来迎図のような色彩だったのだろうか。
9/17からは能をテーマにした展示に替わるそうだ。同じ日から姫路市立美術館でも展覧会が開催されるそうで、テーマは本歌取り。円教寺を開いた性空上人の坐像も出品されるとか。

広縁へ出ると雨がやんでいた。モノトーンだった大講堂に色が戻っていた。それがとてもきれいだったので、胡坐をかいてしばらく眺めた。対面配置はすばらしい。

開口と開いた桟唐戸の三角がリズミカル。中央の開口の奥に鈍く光る釈迦三尊像。

常行堂の広縁。映画『ラストサムライ』では主に食堂が使われたが、映画『駆込み女と駆出し男』では東慶寺に見立て、常行堂、食堂、大講堂の三之院と、広場まで余すところなく使われた。原田監督は『ラストサムライ』に出演し、いつかここで撮りたいと願ったそうだ。
印象深かったシーンは終盤の大審問。大講堂で執り行われている審問を、常行堂の広縁で傍聴する尼僧や駆込み女たち。三之院の配置やお堂の奥行きを活かしたカメラワークが秀逸。引きの絵に挿される主演たちの寄りにドキッとする。田の中の乱入シーンも見ごたえがあった。

束の下端のかたちが面白い。狐かうり坊が梁をくわえているかのよう。

食堂の対面は姫路城主だった本多家の墓所。墓所がつくられる前は五重塔が建っていたそうだが、1331(元徳3)年の大火で焼失してしまったそうだ。三之堂に加えて五重塔、寶(たから)蔵まで建っていたそうで、さぞかし荘厳な景色だったことだろう。

奥の院開山堂の隅尾垂木で屋根を支える力士像。日光東照宮の眠り猫で有名な左甚五郎作との言い伝え。四隅のうちひと隅に像がないのは、重みに耐えかねて逃げてしまったからだとか。

帰り道の途中に雰囲気のある場所。瑞光院という塔頭だそうだ。これを書くのに『駆込み女と駆出し男』を見返したが、源兵衛が待つお寺の山門としてこの場所も使われていた。

最後は、まったくわからないが姫路市内の景色。嘘のように雨雲がなくなっていた。

飛鳥

談山(たんざん)神社、明日香村、橿原神宮を訪れる予定だったが、いきなりつまづいた。桜井駅から談山神社行きのバスに乗り損ねてしまった。日に数本しか走らないのに。
時刻表アプリで猶予は5分あった。列車を降りてからバス停まではせいぜい2分だろうから、小便に3分も費やしたということか。切れが悪くなってはいるが、そんなにかかったのだろうか。
腑に落ちず軽くパニックになったが、気を取り直し歩きはじめた。次のバスは1.5時間後。時間を潰せそうにないし、帰りたくなるかもしれない。Googleマップで検索すると2時間だった。

談山神社大鳥居。むかし聖林寺を訪れたときもここを通った。右側の笠木と貫の欠けは火災によるものだとか。1724(享保4)年に建てられたそうだが、いつの時代の火災だろう。道はもともと鳥居の下を通っていたと思うが、いつから外れたのか。火災と関係しているのだろうか。
ここから談山神社までは省略。標高差450mを喘ぎ喘ぎ上った。Googleマップのルートに挙がらなかったが、山裾に沿った県道37号を歩いたほうが楽だったのではないか。もと多武峯(とうのみね)街道だそうで、昔の人はその道を通って談山神社へ参拝したのだろう。

談山神社の西大門跡だそうだ。東側にある東大門は現存するそうで、県道37号から来ていれば見ることができた。かぎ状に配された石垣は一乗谷を思い出したが、こちらも防衛のための設えだろうか。碑があったが、ここも明治になるまでは女人禁制だったようだ。

緑の清々しい場所。碑には増賀堂跡。談山神社中興の祖である増賀上人が隠棲した場所だそうだ。ここへ来る途中お墓の案内があったが、増賀上人を無知だったので寄らなかった。でも石積みの円墳のようなお墓だそうで、見てみたかった。

シャガがあちこちに群生していた。知らずに見ると美しいが、どうしてもバイオハザードのアレや、プレデターのアレを思い出していけない。

談山神社。正面に見えるのは楼門で、その奥に本殿と拝殿。境内は広く高低差があり、変化に富んだ景色を楽しんだ。朝の陽を受けた新緑がきらきらしていた。
参拝者が少なかったが、この程度なのだろうか。10時を過ぎていたが、向かいの商店はどこも閉まっていたし、ホテルはガラス戸の向こうが真っ暗。神社のホームページには、現在準備中となっている部分やリンク切れの部分があり、境内ともに気の抜けた炭酸水のよう。

右手前は神廟拝所(旧講堂)。藤原鎌足像が安置されていた。中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした乙巳の変は、この多武峰で企てられたそうだ。だからこの山を談い山(かたらいやま)と言い、談山神社と名づけられたのだそうだ。

十三重塔。定慧が父鎌足のために造立した塔婆だそうで、木造で十三重は唯一だとか。
お昼になったが、境内は飲食禁止だったので出発することに。次の石舞台古墳まで1時間かかる。近くの寺の擁壁に腰掛け、買っておいたおにぎりを食べた。
この寺Googleマップのクチコミが悪かったので、リンク先の朝日新聞の記事を読んでみた。おにぎりを食べた場所に寺の看板が立っていたようで、『多武峰妙楽寺』と書かれているそうだが、その名称は談山神社がむかしつけていたもの。幕末までは『多武峰妙楽寺』という寺だったが、神仏分離令のせいで神社へ改めたのだそうだ。寺を建てたのは談山神社とは無関係の寺だそうだが、住職や関係者は偏執的なのだろうか。あるいはモラルに欠けているのかもしれない。

県道を縦断するトレッキングコースを進んだ先に、ひっそり佇んでいた『気都和既(きつわき)神社』。境内は『もうこの森』と呼ばれているそうで、殺した蘇我入鹿の首に追われた中臣鎌足が、ここまで逃げてきたという言い伝え。そのとき鎌足が腰掛けたという石があった。

棚田に菜の花が咲いていた。もう少し遅ければ稲の苗が見られたかもしれない。

石舞台古墳。想像以上の巨石だった。つくり方を見ても、本当なのだろうかと疑ってしまう。でもこれがつくられた7世紀より3,800年前にピラミッドはつくられた。古代人の凄みに震える。

発掘したときには盗掘されて棺はなかったそうだが、破片や他の古墳からこのような家形石棺だったのではないかと。高松塚古墳やキトラ古墳の埋葬者は、決定打に欠け絞れないようだが、こちらの埋葬者は蘇我馬子と言われている。決定打は何なのだろう。

岡寺。正式名称は龍蓋寺。悪事を働く龍を、義淵僧正が境内の池に誘い石で蓋をしたという言い伝え。義淵僧正は日本ではじめての僧正だそうで、国宝の坐像は現在奈良博で公開中だとか。

中央が本堂。本尊は如意輪観音座像だが、塑像で高さは5mもあるそうだ。蛍光灯に照らされた本尊は、退色した塑像特有の白さが浮き立ち、失礼ながら薄気味悪かった。シャクナゲが有名だそうでたくさん植わっていたが、見ごろは過ぎていた。

三重宝塔の隅尾垂木に和琴がぶら下がっていた。藤田美術館蔵の国宝『両部大経感得図』の五重塔に描かれた箜篌(くご)からの発案だそうだが、このような装飾ははじめて見た。

飛鳥宮跡。1,300年前に思いを馳せたが、無知なので大したことは浮かばなかった。

水場の跡だろうか。片隅では、学生による蘇我入鹿暗殺シーンが演じられていた。

明日香村役場。50年前につくられたそうで、K構造研究所の設計だそうだ。奥の2階建てと手前の3階建てでひと棟。手前の3階建ては面白いが、張り出した庇は夏の日射を遮蔽しているだろうし、右側の西面に生えた樹木は省エネに貢献しているのではないだろうか。でもこの施設は数年後には使われなくなるようだ。この先に大きな工事現場を見つけたが、新庁舎の建設だった。
役場のホームページに特設ページがあり、建設理由が書いてあった。”老朽化や耐震不足のため有事に防災拠点の役割を果たせない”、”明日香村に相応しくない意匠形態”。前者はその通りだと思うが、後者はそうは思わない。50年経ちすっかり溶け込んでいる。全村民が相応しくないと言っているのだろうか。お上がこのような発言を公に軽々しくしてはいけない。

高松塚古墳。2段式円墳は抹茶アイスのよう。石舞台古墳は入場料300円だったが、それは石室の維持にコストがかかるからだろうか。こちらは柵の外から眺めるだけなので無料のようだ。
こちらも盗掘されていたそうだが、残っていた欠片から、棺は漆塗りの木棺だったそうだ。

高松塚壁画館。こちらは入館料300円。レプリカが2セット展示されているのは混雑緩和のためだそう。片側は汚れをわざと薄くし、壁画を見やすくしているそうだ。

手前の東壁に『女子群像』『日像、青龍』『男子群像』、中央の北壁に『玄武』、奥の西壁に『女子群像』『月像、白虎』『男子群像』、そして天井には『星宿図』。南壁には『朱雀』が描かれていたと考えられているが、盗掘のために破壊されて残っていないとか。

切手にもなった『女子群像』。他の壁画よりきれいな状態で残っている。
天井面の『星宿図』は、学術的なことが色々あるようだが、単純に感動した。死者と宇宙。

古墳そばの展望台からの眺め。予習をせずに訪れて後悔した。明日香村は想像よりはるかに広く、見どころがたくさんある。キトラ古墳へ行けなかったので、GWに再訪したい。自転車を借りて効率を上げれば、橿原神宮や藤原京、今井町にも行けるかもしれない。
飛鳥駅に着き、小腹が空いていたが、コンビニや飲食店は見当たらず。道の駅は観光案内所と土産物コーナーしかなかったので、駅のホームでグリコの抹茶アイスを食べてやり過ごした。
待合室で女子高生の会話をBGMにウトウトしていると、クラシック音楽が流れたのでハッとした。特急『青のシンフォニー』が停まっていた。音楽は発車ベルの代わりのようだったが、そのセンスに苦笑した。女子高生の2人が嬉しそうに出て行った。女子鉄だった。

ごみ空気輸送システム改

外がうるさいので見てみると、収集車がごみを吸引中。新システムの収集をはじめて見た。
ごみ空気輸送システムが廃止されて3年。改修されてこの度復活した。各棟各階にある収集口へごみを投入し、1階まで自然落下は変わらずで、既存設備を利用する。改修前は落下したごみはそのまま処理場まで空気輸送されていたが、改修後は各棟ごとに設けたタンクへ貯められ、週に2回収集される。タンクには寄りつけないので、離れたところに収集口を設けてパイプでつなぐ。その間30mほどだが、タンク内のごみは自ら収集口へ移動しないので、ごみ収集車に強力なバキューム機能を持たせ、タンク内のごみを吸引するようだ。だから収集車は巨大な掃除機と同じ。
このシステムは特別につくられたものかと思っていたが、新明和工業のテクノキュームという既製システムだそうだ。入札資料によれば、新明和工業が25.6億円で落札している。
設備には耐用年数がある。ごみ空気輸送システムは40年間稼働した。ほかにも同様のシステムを導入している自治体は両手ほどあったようだが、現在も稼働しているのは3か所のみ。そのひとつは芦屋浜だが、代替システムを模索している模様。維持管理費の上昇や、電気代の上昇によるランニングコストの増加など、継続が困難となる要因は設備の老朽だけでないようだ。
改修された設備にも耐用年数はある。伊丹市は同じシステムを利用していたが、20年経って廃止したそうだ。大阪市は耐用年数を18年と定めていて、それを過ぎれば面倒をみないそうなので、おそらく伊丹市のように廃止となり、パッカー車での収集に切り替わるのだろう。
ごみ空気輸送システムが廃止されたあとは、普通ごみ専用のごみ置き場がつくられ、週に2回ごみ出しをしていたが、大したことではなかったので、そのまま続けてくれてよかった。でも使い慣れた、便利で快適で衛生的なシステムを手放したくないと思う住人の要望により、25.6億円かけて設備を改めた。芦屋浜のゴミパイプライン協議会の資料によると、使用期間30年の場合、テクノキュームによる収集に85.5億円、パッカー車による収集に39.7億円と試算。規模が異なり一概に比べられないだろうが、後者のほうがお金がかからないことは間違いなさそう。

春日若宮と宇治上神社

春日大社の若宮神社が式年造替されるそうで、工事がはじまる前に内院や本殿を見せてもらえるというので参加。一般に公開されるのははじめてだそうだ。
10時の回をめがけて向かったが、着到殿に着いたのが10時で間に合わず。次の11時まで待つのかと思ったら、10時30分の回があるという。参加者が多く増やしたのだろう。
巫女が受付をしてくれた。春日大社の巫女に接するのははじめてだったが、神宮の巫女よりも清楚で上品な印象。襟が縞模様になっていたので、聞けば8枚襟を重ねているとか。藤の頭飾りは常につけているそうで、これも春日大社ならではだそうだ。

集合時間まで近くを散策。『砂ずりの藤』はあと少し成長するだろうが、いまの状態でも十分に美しい。萬葉植物園の藤も見ごたえがあるそうなので、GWの奈良行きのときに訪れたい。

若宮神社。いつもは閉じている扉が開いているのは感慨深い。瑞垣はずいぶん退色しているが、本殿は屋根があるのでそうでもない。造替とはいえ、丸ごと造り替えるのではなく、傷んだ部分の補修や再塗装に留まるそうだ。それでも周辺整備と合わせて2億円かかるとか。
面白かったのは千木と鰹木。千木は削ぎ方が垂直ではなく少し傾いている。先端が金具なので、加工的や意匠的に垂直ではないのだろうか。祭神は天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)なので男神だが、男神女神による区別は、鰹木の数とともに俗説なのだとか。
鰹木は2本。春日造のお社は大きくないので、バランス的に2本がちょうどよい。平安時代には大社8本、中社6本、小社4本という定めがあったが、次第に守られなくなったそうだ。ちなみに神宮正殿は10本、出雲大社本殿は3本、住吉大社本宮は5本とばらばら。鰹木の断面が五角形だったが、鳥居の笠木も五角形なので、春日大社独自の意匠だろうか。

拝舎(はいのや)妻面。プロポーションが美しい。内院へ突き出ている部分は拝所だと思っていたが、神楽殿なのだそうだ。いただいたパンフレットに書いてあった。
春日大社本宮は神宮同様「私幣禁断」だが、若宮神社は1135(長承4)年の創建時から個人の祈願を受けつけていたそうで、日本最古の個人のための常設祈願所なのだそうだ。

JRで宇治まで移動し、とりあえず平等院へ。こちらの藤棚は大きいが、すべて柵の中なので魅力は半減。それよりも観音堂の屋根に目を奪われる。こちらはどうか復元されませんように。

昼過ぎに着いたのにすでに逆光。でも朱色が目立たなくてよい。修理を終えてからはじめての訪問だが、2014年修理を終えた鳳凰堂をニュースで見たときは、あまりの変わりように愕然とした。鳳凰堂は古い仏像のように色褪せたままがよい。あと30年ほどかかるだろうか。

鳳凰は金鍍金ではなく漆箔だそうだが、漆箔のほうが性能が高いのだろうか。瓦はすべて葺き替えられたそうだが、つや消しが施されているので、どことなく不自然に見える。

宇治川を渡り宇治上神社へ。宇治へ来た理由は、こちらの本殿と拝殿を拝見するため。こちらの神社は、1994年登録の世界遺産『古都京都の文化財』 にラインナップされている。

国宝拝殿。さざ波のような屋根が美しい。切妻に1間増築したのか、それとも元からこのような意匠だったのか。妻側から見ると入母屋に見える不思議なかたち。縋(すがる)破風と紹介されているが、これもそう呼ぶのだろうか。それとも中央の向拝のことを指しているのだろうか。

国宝本殿。立札に「神社建築として日本最古遺構」とあるが、どういうことだろう。最古の流造ということだろうか。格子の中をまじまじと覗かなかったのでわからなかったが、本殿は格子の奥に建っているそうで、つまり見えているこの建築は覆屋。祭神は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、応神天皇、仁徳天皇で、3つのお社が建屋の中に納まっているそうだ。

宇治上神社を出て「さわらびの道」を進むと、すぐに登山口が現れた。つづら折りの道は緩やかで、15分も歩くと大吉山展望台に到着。正面に鳳凰堂が見える。
彼方が帯状に暗くぼやけているのはなぜだろう。境界の向こうは標高が低くなっているように見える。あのあたりには木津川が流れていると思うが、自然現象の一種なのだろうか。

さらに先の朝日山観音展望台へ行こうとしたが、道を間違えたのか下ってゆき、山を下りてしまった。興聖寺というお寺の脇に出たが、山門から宇治川へ至るアプローチが美しかった。琴坂というそうだ。もみじがたくさん植えられていたので、秋もまた美しいのだろう。
京阪宇治駅へ向けて歩きだすと、すぐ先にある朱塗りの橋のあたりで轟音。宇治川のほうをのぞくと大量の水が放出されていた。マップを見ると、宇治上神社の隣は水力発電所だった。水源は琵琶湖。瀬田川から分岐し、琵琶湖疏水のようにトンネルを掘って引いているようだ。
京阪宇治駅ははじめてだったが、立派なロータリーにでんと構えた駅ビルは生気がなかった。半地下の通路をくぐり抜けると、ルイス・カーンの丸開口を真似たような意匠の駅舎。恥ずかしげもなくよくやると思ったが、ホーム上屋の柱を見てピンときた。若林さんの設計だった。