工芸図案家の仕事

いつもの案内板に『イースター用ボンボン容れのデザイン(2)』が止まっていた。気の利いた演出に思わずニンマリ。会期中壊れないよう鉄でしっかりつくられていた。
京都国立近代美術館で『上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー』展を鑑賞。上野リチ・リックスは初見だったが、どうやら近年まであまり知られていなかったようだ。
夫とともに創設した『インターナショナルデザイン研究所』の後継『京都インターアクト美術学校』の閉校の際、所蔵していた500点の資料を京都国立近代美術館へ寄贈。そのお披露目にと『上野伊三郎+リチ コレクション展』を2009年に開催。その後、ウィーン工房やウィーン分離派などの研究のためにコレクションを購入し、そのお披露目となる展覧会『世紀末ウィーンとグラフィック―芸術の総合と民主化の試み』を2019年に開催。また、リチさんが技術嘱託として赴任した京都市染織試験場にお勤めだった方が、2009年の展覧会を鑑賞し、所持していた資料を寄贈。おかげで京都市染織試験場時代の仕事が明らかになったそうだ。
展示はウィーン時代、日本との出会い、京都時代の3章立て。ウィーン工芸学校を卒業し、教授だったヨーゼフ・ホフマンの誘いを受けウィーン工房へ。夫の上野伊三郎とはホフマンの建築事務所で知り合った。結婚後上野の郷里である京都へ移るが、ウィーン工房の仕事も続けた。
ブルーノ・タウトがデザインした竹工品や木工品が展示されていたが、タウトは上野らが結成した『日本インターナショナル建築会』の外国会員だった。ヒトラーから逃れるために来日した際、手助けをしたのが上野だそうで、かの桂離宮へ案内したのも上野だった。群馬県工芸所ができたとき、タウトは上野を所長へ任命。リチも一緒に働いたが、タウトはモダニズム、リチはセセッション。ウマが合わなかったようで、上野とタウトの関係も悪化したそうだ。
旧都ホテルの壁紙が展示されていたが、村野藤吾とも縁があったようだ。クローズアップされていたのは、日生劇場にかつてあったレストラン『アクトレス』。壁から天井までアルミ箔で覆い、色とりどりの植物や鳥が描かれていたそうで、実物の一部が展示されていた。

続いて京都文化博物館で『フィンレイソン展』。3階にはフィンレイソンの生地を用いたアイキャッチ。ミナ ペルホネンの展覧会にインスパイアされたのだろうか。
売店にはたくさんの商品が並んでいたが、あれほど多種多様のライセンシーがあることを知らなかった。ハンカチにしたい図柄があったが、生地売りはしていないのだろうか。本国の公式ウェブサイトを見ても、加工品ばかりで生地売りは見当たらなかった。
知らない図柄がたくさんあったので、資料性の高い図録は欲しかったのだが、トートバッグつきだというので買わなかった。単に受けると思ったのか、ページが少ないので価値を上げようとしたのだろうか。2,200円だったが、図録だけだと1,500円くらいだろうか。トートバッグはいらないが、図録は欲しいおじさんもいる。こちらは気が利かなかった。