待庵と黄金の雨樋

国宝待庵を拝観。往復はがきでの申し込みが億劫で、ずっと後回しにしてきたが、国宝如庵を拝観したこともあり、ようやく重い腰を上げた。昔はなかなか予約が取れなかったと思ったが、このコロナ禍で落ち着いているのだろうか、第1希望日の拝観が叶った。

早めに山崎へ着き、離宮八幡宮を参拝。山崎は何度も訪れているが、こちらははじめて。
当神社は製油発祥の地だそうだ。社司が油をしぼるための道具を開発し、荏胡麻油を大量生産することに成功。灯明として利用し、宮廷にも献上。朝廷から独占権を認められ、社寺の灯明の油はすべて大山崎が収めることになったそうで、その後200年にわたり全盛を極めたとか。

油祖像の横の的のようなオブジェは、全国油脂販売業者共通の店頭標識だそうだ。
当神社の八幡神は宇佐八幡より遷座されたそうだが、遷座1100年大祭の施行にあたり制定されたのだそうだ。全国から公募し、嶋本昭三というアーティストの案が選ばれたそうだが、その時の審査員は早川良雄、河野鷹思、吉原治良だったそうだ。

塔心礎。飛鳥時代から奈良時代、この辺りに存在した寺院のものではないかとのこと。
画像では伝わりにくいが、長辺は2mを優に超え、心柱を据える穴の直径は1mある。東寺の五重塔の心柱は直径1mだそうなので、単純に比較すると高さ50mは超えていただろうか。水が溜まっている部分が扇形をしているのは、手水鉢として利用されていた痕跡だそうだ。

時間が来たので妙喜庵へ。玄関柱に留められた木札には、「見学御希望の方は往復ハガキで一ヶ月程前に御申込みください。団体での拝観は謝絶します」とあり、床置きの掲示板には、「妙喜庵茶室待庵(国宝)の原寸大模型が資料館に展示されていますので、拝観予約のない方は下記の大山崎町歴史資料館へどうぞ」とあった。素っ気なかったが、一々対応していられないか。

山門の扁額。東福寺の南宗流という書道の開祖の筆で、室町時代のものだそうだ。妙喜庵は東福寺の末寺だそうで、だから弓欄間がついているのだろうが、門についているのははじめて。
玄関を開けると人の列。一度につき10名程度だろうと予想していたが、ご住職いわく20名だったそうだ。通常より多いということだったが、現在は日曜日の午前しか受けつけられていないので、これくらい入れなければ捌けないのだろう。でも待合である書院や明月堂が広いので、窮屈に感じることはなかった。数名ずつ待庵を拝観し、待つ間はご住職のお話を伺った。おしゃべりが上手で柔和なご住職だった。おかげで予定を大幅に超えて滞在してしまった。
境内は撮影NGだった。昔は待庵内部以外は撮影できたようだが、現在は全域NGとされているそうだ。いつもならふくれるところだが、そのような気はまったく起きなかった。素敵なご住職と、目にするものすべてがすばらしかったおかげだろうか。待庵のすばらしさはもちろんだが、とにかく庭に魅了された。苔の生え具合や、苔に落ちる光や影がとても美しかった。
京博で待庵の模型制作のドキュメンタリーを見ていたので、炉の四隅が丸くなっていないことや、丸太柱のなぐり跡を確認したが、内部は想像より暗くはっきり見えなかった。

せめてもの物撮り。左はいただいたパンフレット。解説はもとより、歴代のご住職や待庵の寸法入り平面図も。中央は土産にと購入した冊子で550円。14ページしかないが、全ページコート紙にフルカラー印刷。写真はきれいに撮れているし、パンフレットには載っていないうんちくも。右は返信はがき。他の方は回収されていたが、記念にとお願いしていただいた。

次は石清水八幡宮を訪れるのだが、大山崎町歴史資料館で『古絵図の魅力-地図で旅する大山崎』という展覧会が催されているようなので寄り道。待庵の原寸大模型も観てみたかった。
こじんまりとした展示室にたくさんの古絵図が並んでいたが、いかんせん説明が多く、そのくせ文字が小さく読みづらいので、簡単に鑑賞し、図録を購入して終いとした。

阪急電車大山崎駅からひと駅の西山天王山駅。ここから京阪電車淀駅行きのバスに乗車。
この駅は数年前にできたそうだが、降りてみてここにつくられた理由がわかった。上を走る道路は京都縦貫自動車道だが、この上に高速バスのバス停があるようだ。神戸淡路鳴門自動車道の高速舞子バス停のように、高速バスと鉄道を接続するためにつくられたのだろう。上述のバス路線も駅開業に合わせて運行を開始し、阪急電車、JR、京阪電車の各駅を結んでいるそうだ。

石清水八幡宮駅から山頂へは金ピカの『こがね』号に乗車。令和元年に車両デザインをリニューアルしたそうで、石清水八幡宮の『阿吽の鳩』になぞらえられているとか。フロント中央のトレードマークは、『阿吽の鳩』と神紋の『流れ左三つ巴』をかけ合わせているそうだ。

石清水八幡宮を訪れたのは特別公開を見学するためだが、それに合わせてだろうか、重森三玲作の書院石庭も公開されていた。前に来たとき観れなかったので、ちょうどよかった。

説明がなかったので帰ってネットを調べると、国生み神話を表現しているのではないかと考えている方がいた。中央の小さな石がオノコロで、他の島が周りを囲む。手前の隅は見えなかったが、数は揃っているのだろうか。石燈籠は鎌倉時代のもので、重要文化財だそうだ。

受付は東門。左甚五郎の彫刻や黄金の雨樋が観られるということで、昇殿参拝との違いをたずねてみると、昇殿参拝のほうが拝観エリアが少し広いそうだ。それなら昇殿参拝のほうがよかったが、特別公開中は開催していないとのこと。そういうことはウェブサイトのお知らせ欄に書いてくれればよいが、この神社はそのあたりが不親切。お高くとまっているのだろうか。
スリッパに履き替え、廻廊を東から西へ三辺巡った。本殿は瑞籬(みずがき)に囲われているが、その上部に彫刻が施されていて、左甚五郎が彫ったとされるカマキリもあった。もうひとつの左甚五郎作といわれている『目貫の猿』は西門にあったが、よく見えなかった。
黄金の雨樋は周囲が建て混んでいて一部しか見えなかったが、金箔の鈍い輝きは見て取れた。てっきり落とし口のところだけだと思っていたが、軒樋すべてが金、銀、錫、銅の合金製で、突き出た部分にのみ金箔が貼られているそうだ。天災にあった時など修復の足しになるよう、換金を視野に入れての設えだったとか。長さ21.7m、高さ21cm、幅54cmだそうだ。

前に来たときうまく撮れなかった『信長塀』。内側の土は締め固められていないそうだ。

前に来たとき見過ごしていた『鬼門封じ』。斜めにする理由が書かれていなかったので調べると、京都御所の鬼門除けの説明には、角(かど=つの)を取って鬼を封じると書いてあった。

前に来たとき寄らなかった展望台。京都を一望できる素敵な場所だった。

植込に咲いていたホトトギス。はじめて目にしたが、斑点が気持ち悪い。

前に来たとき気がつかなかった松花堂の平面表示は、やはり中路地の遺構の奥にあった。

よく見ると室名が表示してあるが、落ち葉に埋もれて見えないものがほとんどだった。
石清水八幡宮のウェブサイトには、整備して間もない頃に撮影したと思しき写真が掲載されている。前にも書いたが、文化遺産オンラインには、同様の中路地の遺構の写真が掲載されている。どちらもとてもきれいな状態だが、現在はどうなのだ。お金のかかることではあるが、作ったのであればきれいに維持してほしい。そうでなければ段々廃れ、終いに撤去する羽目になる。

参道を相槌神社まで下ると、南へ向きを変え歩くこと25分。西車塚古墳の上に建つという六角堂へやってきた。かつては石清水八幡宮の現在の駐車場の一角に建っていたそうだが、神仏分離令のときに正法寺の所有地であったこの場所へ移されたのだとか。

八角堂は想像より大きかった。新しく見えるが、造られたのは1607(慶長12)年だそうだ。後に倒壊してしまったが、大規模修理が行われ、1698(元禄11)年に再興したのだとか。
かつて鎮座していた本尊は、高さ3mの阿弥陀如来座像で重要文化財。快慶作ではないかということだが、現在は正法寺に移されていて、特別公開のときには拝観できるようだ。

花の名を当てるアプリで山茶花と出たが、山茶花は赤い花しか見たことがなかった。

最後は一ノ鳥居の額。八が2羽の鳩でできている。特別公開会場のビデオで紹介していた。