京都で『生誕150年記念 板谷波山の陶芸』展、『生誕100年 清水九兵衞/六兵衞』展を観賞。『生誕100年 清水九兵衞/六兵衞』展のウェブページで、京都で見られる清水九兵衛作品のガイドマップが配布されていたので、合わせて巡ることにした。
京都テルサにある『祭甲(1996)』。配置が窮屈。作品もうなだれている。
新京都センタービルにある『CONNECTION(1981)』。40年経ち朱色が褪せていた。
横から見る。上の部材の先端は叩き出しだろうか。継ぎ目がないので1枚板だと思うが。
京都駅ビルの大階段にある『朱甲舞(1997)』。九兵衛さんを無知の頃から何度も見ていた。
上の画像は寂しそうだが、反対側から見ると賑やかしい。作品もどこか喜んでいる。
京都文化博物館にある『朱装(1990)』。照明はダウンライトがよかった。見通しが悪い。
横顔も素敵。表側と裏側の部材がピタリ合っていて美しい。
京都新聞社にある『寿冠(1989)』。エントランスホールに設置されていたが、面食らったのはそのサイズ。トロフィーほどしかなかった。束帯の冠のようなかたち。
九兵衛さんの作品巡りはいったん休み。丸太町通東端の泉屋博古(せんおくはくこ)館へ。
板谷波山の作品は、2014年に兵庫陶芸美術館で鑑賞して以来だが、今回ハッとした出来事があった。アールヌーボー調の作品を観ていると、突然田中一村の絵が脳裏によみがえった。似ていると思った。もしかすると、五十嵐匠監督もそのように感じ、『HAZAN』と『アダン』を立て続けに製作したのではないだろうか。そう思ったら無性に観たくなったが、両作品ともレンタルもオンデマンドもない。廃盤になったDVDソフトはプレミアがつき手が出ない。
1号館ロビーに展示されていた『葆光彩磁葡萄唐草文花瓶』。この作品のみ撮影可だった。
展覧会場のある2号館を望む。おおらかで美しい屋根。棟を通せればより美しかった。
右に写る石組は井戸だそうで、現在も底に水を湛えているとか。よく見ると井桁に組まれていて、住友の商標になぞらえたのだろうか。7代小川治兵衞の作庭だそうだ。
来るたび撮影してしまう素敵な窓。
こちらも同様。陶製の吹出口が蛸壺のように見えて面白い。常滑だろうか。
再び九兵衛さんの作品を観るため岡崎へ。泉屋博古館そばの白川。このあたりは雑草やごみなどはなく、川底全体が白川石で覆われていてまさに清白。
通りすがりのお宅。波山の器にも描かれていた柘榴がたわわに実っていた。
京都市京セラ美術館にある『朱態(1990)』。美術館の入口そばの植込に設置されていたのを覚えているが、リニューアルを機に移設されてしまった。ここは南回廊という展示エリアの中なので、このエリアで催される展覧会を鑑賞しなければお目にかかれない。
裏側から見る。むかしは使われていなかったと思うが、現在は『天の中庭』という洒落た名前を与えられている。ベンチが複数置いてあったので、さしずめ休憩スペースだろうか。
京都国立近代美術館へ移動し、いよいよ『生誕100年 清水九兵衞/六兵衞』展を観賞。
最初の部屋は九兵衛さん。はじめて見るアルミ色とかたち。いきなり心を掴まれた。
次の部屋には七代六兵衛、襲名以前、そして九兵衛さんの作品が一堂に会していた。台に載せられた様々な釉やかたちの器、出口のそばに並んだ丸い切り欠きのある茶碗が素敵だった。
映像コーナーがあり、散歩をする様子や、ご自宅のリビングでくつろぐ様子、仕事場の様子が流れていた。トレードマークである白のつなぎは、民生品ではなく特注品なのだそうだ。
最後の部屋は再び九兵衛さん。1968年に九兵衛を名乗り、1980年に七代六兵衛を襲名、2000年に代を譲り再び九兵衛へ戻った九兵衛さん。彫刻がお好きだったのだ。
一番のお気に入り。作品、配置ともにすばらしいと思った。
接合部のボルトやナットに化粧キャップ。細部にまで抜かりがない。
1階ロビーには、アルミと陶器を組み合わせた作品や、図面やマケットが展示されていた。
ところで、疏水に面した窓が塞がれていた。大規模修繕が行われるのだろうか、建物の周囲に足場が組まれていたので、それを屋内から見せないようにするための措置だろうか。
みやこめっせにある『朱鳥舞(1996)』。これも無知の頃から何度も見ていた。
京阪電車三条駅構内にある『朱甲面(1989)』。トイレの横にあるので何度も目にしているはずだが、無知だと記憶に残らない。きれいに設えられているが、暗いせいでどんよりしていた。
最後は五条坂。若宮八幡宮の鳥居の横に、「清水焼発祥之地 五條坂」の石碑。九兵衛/六兵衛さんの文字だそうだ。とめる部分もはらう部分もはねるのが特徴だとか。
左の瓢箪は九兵衛さんデザインの街路灯だそうだ。右の建物は仕事場だった六兵衛窯。
六兵衛窯のウェブサイトに、八代六兵衛のインタビューが掲載されているが、興味深いことが書かれている。河井寛次郎さんが京都陶磁器試験所に勤めていた頃、釉薬の顧問として六兵衛窯へ出入りしていたそうだ。その縁で、寛次郎さんが30歳で独立して活動をはじめるとき、五代六兵衛から登り窯を譲り受けたのだそうだ。六兵衛さんと寛次郎さんはご近所だった。