竜とそばかすの姫

アアルト展へ行く前に映画『竜とそばかすの姫』を鑑賞。アアルト展だけではもったいないので、ついでに映画でも観るかと調べたら本日封切り。おまけにサービスデーだったので安く済んだ。待ち焦がれていたわけではなかったのでありがたかった。
監督のオリジナル長編はすべて観ているが、前作『未来のミライ』はつまらなかった。リアルすぎる幼児や荒唐無稽なファンタジーに感情移入できなかった。現代の家族像を描きたかったそうだが、あれは監督の家族。私たちのような労働者階級の家族ではない。この作品で監督はなんとなく変わってしまったように感じた。だから次作もつまらないのではと案じた。
監督は自身の境遇を作品へ落とし込む。『サマーウォーズ』では結婚した奥さんに親戚がたくさんいて、そこから着想を得たのが旧家の大家族だったが、おかげで旧態依然とした家族と新しい仮想世界の対比という面白みが生まれた。『おおかみこどもの雨と雪』では子どもを育てる母の強さや逞しさを描き、『バケモノの子』では子供の成長に手を差し伸べる大人たちを描いた。ともに自身の境遇をベースに想像が膨らみ、これまで見たことのない世界を描いてきた。
でも本作に新世界は登場しなかった。既出の『仮想空間』と古典の『美女と野獣』の組み合わせ。仮想空間の二面性と野獣の二面性がリンクするとか。思考が発端のようだった。
もしかしてネタが尽きたのだろうか。仮想空間をより美しく描けば二番煎じは和らぎ、インターネットの負の部分を『野獣』と掛け合わせればエンタメに昇華すると考えたのだろうか。「子どもたちには目の前の世界をちゃんと肯定的にとらえてほしい」そうだが、そう思ってもらえるようにするために正しいことを描いただろうか。竜の正体を父親から虐待を受けている少年に仕立てたことは正しかっただろうか。竜に心を解き放ってもらった主人公が、次は自分が助ける番だと高知から東京へ駆けつけることは正しかっただろうか。周りの人々は止めるどころか送り出していたが、同級生はまだしも合唱クラブの大人たちの行いはあれでよかったのだろうか。現実の社会問題に切り込んでいるようでその実薄い。感動させることしか考えていない。
ベルの顔を見ていられなかった。ディズニースタジオの人気アニメーターの作だそうだが、大きな目やタトゥーやそばかすが生理的に受けつけなかった。そのベルがまたがる鯨はたくさんのスピーカーを担いでいたが、どうにも気味が悪く腹部の筋肉が収縮してしまった。
ベルの衣装にフラワーアーティストやファッションデザイナーが関わっていたり、仮想世界はインターネットで見つけたイギリスの若いデザイナーがデザインしているとか。声優は今をときめく俳優や音楽家が揃っていて、監督はよほど才能や華に囲まれていたいのだろうか。
竜を追いかける『ジャスティン』の昭和的なキャラクター造形に苦笑し、役所広司さんが演じた主人公の父親の出番の少なさに驚き、『アズ』の造形の面白みのなさにがっかりした。
作品はつまらなかったが、中村佳穂さんの歌唱は胸を打った。いや、あの歌唱のせいで涙があふれてしまい嫌悪感に苛まれた。あの歌唱さえなければきれいサッパリ忘れられた。