伊勢詣。今年は神宮参拝を午前中に済ませ、午後は鳥羽にある『海の博物館』を訪れた。
昨年内藤廣さんの展覧会でインスタレーションを見て気がついた。伊勢から鳥羽までは特急で15分。毎年特急券つき『伊勢神宮初詣割引きっぷ』を利用するが、使わずに捨てているフリー区間用特急券を使うことができる。問題は鳥羽駅からの足だが、調べると路線バスが走っていた。前に訪れた時はレンタカーだったが、おそらく路線バスは走っていなかった。
途中のバス停で車窓から見えた郵便ポスト。東京オリンピックで金メダルを獲得した選手ゆかりの地にあるポストを金色にする『ゴールドポストプロジェクト』だそうだが、選手は喜んでいるのだろうか。立案者と関係者が喜んでいるだけではないのだろうか。
そういえば東京オリンピックは2020だったので、今年は次のオリンピックの年。3年半何をしていたのだろう。コロナ渦中の時間はブラックホールに吸い込まれてしまったようだ。
バス停からのアプローチ。細かいピッチで短冊状に目地を切るだけで、コンクリート舗装の表情が豊かになる。赤い扉は搬出入口だろうか。収蔵庫の黒い扉も同様だが、美術家が制作しているそうだ。木枠に鉛板を張り、樹脂系特殊塗装を施してあるそうだ。
玄関庇。右は展示棟A館、左は2003年に増築されたというカフェ。前に訪れた時はなかった。これも内藤さんの設計だそうなので、帰りにコーヒーでもと思っていたのだが、予定していた2時間では鑑賞できず、最後は早足となってしまった。当然店へ入る時間はなかった。
応力に沿って配置されたという庇のリブが、蜘蛛の巣やアンモナイトに見えて面白い。
カフェ店内に見えた石積みの壁に違和感を覚えたが、帰宅後写真集を見て理解した。カフェが建つ所に元々のアプローチがあった。石積みの壁はアプローチに沿ってつくられた石垣だった。壊せばお金がかかるので、石垣を残しその上に小屋組を設けたのだろう。アプローチの位置が変更されたので、庇の柱と展示棟A館の間にあった石積みの低い仕切りは撤去された。
展示棟A館。日本人は古代より海の民として生きてきたとし、神宮、信仰、祭り、遺跡、汚染などについて展示している。手前の魚はすべて模型。種類の多さに驚いた。
手摺のつくりが面白い。笠木はフラットバーだが、支柱は異形鉄筋を2本立て、ナットを挟み溶接し、ステンレスワイヤーを通している。コーナー部分はL字に3本配置していた。
トップライト端部。2本の円筒は排気ファン。夏場の熱気抜きだろうか。石油ストーブが置いてあったので、エアコンは設置されていないのだろう。コートを着たまま鑑賞したので寒さは感じなかった。これでよい。昨今の公的空間は暖(冷)房が効きすぎている。
エアコンがなく、換気も自然換気なので、光熱費は年間400万円程度だそうだ。他を知らないのでピンと来ないが、同規模で公共の博物館では10倍はかかるだろう、とは初代館長の弁。
客用トイレ。扉を開けて驚いたが、すぐに慣れた。ハードな見た目だが清潔にされていた。
収蔵庫の竣工は1989年、展示棟は1992年だそうなので、バブル景気に湧いていた頃。建築も坪単価200万円がざらにあったそうだが、この施設は収蔵庫が42万円、展示棟は55万円だそうだ。バブル建築に反発し安く上げたわけではなく、ただ予算がなかったそうで、設計期間中の初代館長の口癖は「金がない」。そのくせ要求が多く苦労されたそうだ。
でも苦労は苦労に終わらず、日本建築学会賞作品賞や吉田五十八賞をはじめ、数々の賞を受賞する建築として結実した。収蔵庫の構造体が組みあがった頃、現場へ幼い娘を連れて行ったそうだが、よちよち歩く姿を見て、建築をやってもいいかと初めて思ったそうだ。
外観。左にエントランスキャノピーやカフェが見える。屋根は金属板ではなく桟瓦。塩害対策だそうだ。外壁は厚さ32mmの杉板を縦横二重に張り、タールを塗装してあるそうだ。
軒樋の端がもげていた。展示棟B館のほうも同様だったが、修繕しないのだろうか。トップライトの天幕も見えないが、外してしまったのだろうか。上述の通りお金がなかったので、天幕は内藤さんの持ち出しで設置されたそうだ。さらし50反を購入し、内藤さんの奥様が友人と縫い上げたそうだ。奥様の著書『建築家の考えた家に住むということ』に書かれている。
展示棟B館は、伊勢湾や熊野灘での漁、海女、木造船について展示している。
ボリュームや構造体はA館と同じだが、2階の範囲が異なっている。こちらはまったく2階のない部分が広くあるので、構造体をよく見渡すことができる。アーチが船の竜骨のようだが、発想の源は初代館長と訪れたスミソニアン自然史博物館で見た蛇の骨格模型だそうだ。
トップライトや照明の光に浮かぶ構造体が美しい。初代館長は窓のない建物を望んだそうだが、内藤さんは光熱費削減のためには必要と説いたそうだ。結果窓はついたが、初代館長は納得していなかったようで、『建築ジャーナル』のインタビューに妥協した1つと答えていた。
外観もA館と同じだが、開口部の位置が異なる。前に訪れた時の状態を覚えていないが、手前の「ばかうけ」のようなオブジェのある部分、石がゴロゴロしている部分には水が張られているそうだ。現在も張られているそうだが、常時は取りやめ、繁忙期限定だそうだ。
収蔵庫棟外観。切妻屋根のボリュームが3つ。右の部屋には網、布、紙、左の部屋には桶、樽、籠、漁具、奥の部屋には船が収められているそうで、奥の部屋のみ公開されている。
収蔵庫と後述する2棟にはモダンな鬼瓦が載ってあるのだが、収蔵庫は破風板の拝みに懸魚までついている。真面目なのか洒落なのかわからないが、不思議と違和感はない。
収蔵庫はプレキャストコンクリート・ポストテンション組立工法。外壁版を立て、屋根版を乗せ、屋根版の上に母屋、垂木、野地板を設け、展示棟と同じ桟瓦を葺いてある。
軒瓦の文様は、星印がセーマン、もう1つはドーマン。海女の魔除けだそうだ。昔は白襦袢に描いたそうだが、現在はウェットスーツなので、頭に巻く磯手拭に描いているそうだ。
エントランスホール。収蔵庫3つをつなぐ空間。こちらはRC造ラーメン構造。コーナーが丸面なので漆喰かと思ったが、写真集にはVPと記載。お金がないのでそれはそうか。
柱は十字型。鉄ではないが、ここから十字柱が始まったのだろうか。床は真砂土叩き仕上げ。スリッパに履き替え入室するのだが、通行部分にはカーペットが敷いてあった。
オーム社の図面集に書いてあるそうだが、足元の窓には給気口が仕込まれているそうだ。ガラスの下は外とつうつうになっていて、砂利の下にグレーチングが敷いてあるそうだ。
収蔵庫。点検台からの眺め。クジラに飲み込まれた船たち。あるいは船の墓場。
タイビームの下弦が取りつく梁と揃っていなかったが、展覧会の図録に収録されている断面図を見て理解した。タイビームに平行する梁に揃えてあった。あえてそのようにしたのか、照明器具のアンカーのためのフカシか。揃えたほうがよりきれいに見えたのではないだろうか。
収蔵庫なので湿度管理が必要だが、展示室同様機械式空調設備は設けられていない。床の真砂土がその役割を担っている。真砂土の下はスラブではなく、割栗石を介し地盤の上に施されているので、真砂土は乾燥することなく一定の湿度を保っているのだそうだ。
照明器具は展示棟と共通。ランプの部分は既製品で、その下にリングやディスクを自前で吊り下げているそうだ。ディスクはパンチングメタルでできていて、光を拡散していたが、照度は高くはなかった。鳥目で老眼の私はキャプションが読めなかった。
コストを抑えるための自前だそうで、1台100万円から5万円に下げることができたそうだが、それ程下がるのであれば性能や機能は等しくないのではないか。
体験学習館。1998年にできたそうなので、前に訪れた時はあったと思うが、記憶にない。収蔵庫の裏にあるので見落としたのだろうか。1階はひと気がなかったので2階へ。
特別展示室。RC柱に木製トラスフレーム。設備はこだわらず、エアコンがよく効いていた。
展示は『カツオ一本釣り漁船にエンジンがついた!はじまりは伊勢・市川造船所』。漁船にエンジンがついたのは1906(明治39)年で、その船を製造したのが伊勢にあった造船所だそうだ。その船は漁獲成績が優秀だったので、そこから一斉に漁船の動力化が始まったのだそうだ。
最後は『三重大学 伊勢志摩サテライト 海女研究センター』。1階が自由に出入りできるギャラリーとなっていて、鳥羽出身の作家による植物の写真やアート作品が展示してあった。
15倍デジタルズーム。こういう時レンズ交換式カメラが欲しいと思う。
バスを待つ間モダンな鬼瓦を撮影したのだが、拡大してみると『蘇民将来』と彫られた巴瓦がついていた。『蘇民将来』の説話は日本各地に伝わっているそうだが、この辺りでは注連縄に『蘇民将来子孫家門』と書かれた木札をつけ、説話の通り年中飾るそうだ。
他に『笑門』と書かれた木札も見かけるが、これは『蘇民将来子孫家門』の短縮形だそうだ。てっきり「笑う門には福来る」からだと思っていたが、なぜ『将門』ではなく『笑門』なのか。一説によれば、平将門の乱の後、誤解されぬよう『笑門』へ変えられたのだそうだ。