静岡へ

静岡市立芹沢銈介美術館を訪れた。十年来訪れたかったが、このためだけに静岡まで出向くことに躊躇していた。数年前に内藤さんが設計した静岡県草薙総合運動場体育館ができて、最近になってヴォーリズ設計の旧マッケンジー邸が近くにあることを知ったので、これだけ揃えばと出かけることにした。GO TOキャンペーンにも後押ししてもらった。往復9,000円で済んだ。その上2,000円分の地域共通クーポンがついていたので、弁当などに充てさせてもらった。

スタートは旧マッケンジー邸。静岡駅からバスで移動したが、最後に乗った静鉄レールウェイ共々、PiTaPaのポストペイに対応していたのでありがたかった。
静岡駅から石田街道を南下した海のそばに建っている。マッケンジー夫妻が海のそばで暮らしたいとこの場所を選んだそうだ。赤い西洋瓦、白いスタッコ、アーチの窓、ヴォーリズが得意とするスパニッシュスタイルで、多角形の張り出し部分は食堂、その右側は階段室で、登れなかったが頂部は展望室だそうだ。マッケンジー氏の趣味は天体観測だったとか。
マッケンジー夫妻はお茶を海外へ輸出する会社を営んでいたそうで、戦時中はアメリカへ一時帰国したものの、亡くなるまでここで過ごしたそうだ。夫亡きあと、婦人は私財を投じて社会福祉に尽力したそうで、その功績が認められて静岡市名誉市民の第一号となったとか。

壁に掛かっていたキッチンタイマーは30cm超。さすがアメリカ製。

海まで出て、静岡駅で買っておいた弁当を食べた。店員に薦められた『鯛めし』はこちらでは有名なようで、芹沢さんも大好物だったそうだ。醤油で炊いたご飯の上に甘い鯛のそぼろが敷き詰められていて、添え物はたくあんのみという潔さ。とても美味しかった。

20分ほど歩いて静岡市立芹沢銈介美術館へ。登呂遺跡の脇から敷地へ入ると、柳宗理さんがデザインしたという顕彰碑がお出迎え。裏側に略歴が彫られているが、芹沢さんは静岡市名誉市民の第二号だそうで、偶然にも第一号と第二号に関する施設を正順に訪れた。

美術館の設計は白井晟一さん。芹沢さんとの関係がわからなかったのだが、パンフレットによると、ブルーノ・タウトの弟子と言われる水原徳言さんの紹介だったそうだ。
建物は、隣接する登呂遺跡や近隣住宅に配慮してか、高さが抑えられて、荒々しい石積みの壁に囲われている。この石は、白井さんが紅雲石と名づけた松涛美術館と同じ花崗岩。外部建具はブロンズ製。はじめてブロンズ製建具に触れたが、温もりがあって開閉が思いのほか軽かった。
企画展は『芹沢銈介 ―模様をめぐる88年の旅―』芹沢さんといえば模様なので、ちょうどよい企画に当たった。お馴染みの『丸紋いろは六曲屏風』や『ばんどり図四曲屏風』『文字絵』から、『蔬果図』『鯛泳ぐ文着物』『伊曽保物語四曲屏風』などはじめて観る作品が多くあった。七角形の部屋には暖簾が展示されていて、『御滝図』『富士と雲文』『天』に興奮した。200点が展示されていたそうだが、あらためて芹沢さんの仕事の凄まじさに触れた。

出口の建具は入口とは異なり竪桟が入っていて、石壁のアーチ共々景色がよい。
内はミュージアムショップ。土産は美術館が編んだ芹沢銈介文集と型染カレンダー。型染カレンダーは買うまいと思っていたが、上映していた記録映画を観たら欲しくなった。芹沢さんの作品はとても買えないが、考えればカレンダーも立派な作品。これなら手が届く。

日曜日のみ見学できる芹沢さんの家。蒲田の家から持ってきたそうだが、もともとこの建物は宮城にあった板倉で、気に入ったので譲ってもらい、移築して住めるようにしたのだとか。
芹沢さんは農夫のように平凡な家と言っていたそうだが、なかなかどうして趣きがある。2階の掃き出し窓と手摺柱や、柳宗悦さんのリクエストで設けたという1階の出窓がよい。

パンフレットに床は朝鮮張りと書いているが、板が長いので正しくない。韓国の松は曲がりが多くて長材がとれないので、短材を用いた張り方として生まれたのが朝鮮張り。河井寛次郎記念館の床が正しい朝鮮張り。民藝を興した方たちなので当たり前かもしれないが、芹沢さん、寛次郎さん、濱田さんの住まいは佇まいがよく似ている。ところで『芹沢銈介の静岡時代』に書いていたが、芹沢さんは東京高等工業学校で寛次郎さんや濱田さんと同級だったとか。
十分に堪能したので、静岡県草薙総合運動場体育館へ。バスと電車を乗り継いで行けたが、一直線に歩くのと時間が変わらないので歩いて向かった。

中には入れなかったので外観のみ。コンビーフ缶に鳥追笠を載せたようなかたち。飲料ボトルのキャップから着想を得たそうだが、見る位置によってかたちが変化して面白い。

メインアプローチ。壁が鈍く光って美しい。チタン亜鉛合金製の折版だとか。
全行程が終了したが、時間が余ったので周囲を散策していると、球場にベイ・ブルースと沢村栄治の銅像が立っていた。1934年にここで親善試合が行われて、二人は対決したそうだ。
日本のプロ野球はこの親善試合をきっかけに誕生したそうなので、礎となった球場と言えるだろうか。ちなみに長嶋茂雄の現役最後の試合もここだったそうだ。

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