山口晃と三國荘

三巡目の『山口晃―ちこちこ小間ごと―』。小説『親鸞』挿画の入れ替えもさることながら、会期が後半になったので、他の展示室もすべて入れ替わっていた。

小説『親鸞』第一部の最後。念仏禁制の裁きを受け、流刑地の越後へ旅立つ親鸞と恵信。最後にきて、五木寛之さんから顔を描くことを許されたそうだ。
五木さんのイメージでは、親鸞は本木雅弘さん、恵信は宮沢りえさんだそうで、似せるか似せないか悩んだそうだが、この顔はピンそば1m程度につけたということだろうか。

反射シリーズも健在。千利休がガラスに映る部分には紺紙のようなものが。「太閤手 へ ま」と書いてあるので、利休の自死に関するインスタレーションだろうか。

こちらはピンとこなかった。黒田辰秋さんの『螺鈿菓子重箱』の対面には、2021年秋と書かれた描き下ろしの饅頭の絵が、重箱の高さにまで下げてセットされている。顔をガラスに沿わせて見てみれば、重箱の中に饅頭が収まっているように見えるが、それで正解なのだろうか。

ライブラリーに飾られていた額。キャプションがなかったが山口さんの筆だろう。小間ごとの詩だろうか。たくさんの「仕事」という文字が寛次郎さんを想起させる。

帰りは阪急電車に乗ったので、寄り道をして三国へ向かった。民藝運動のパトロンだったアサヒビールの創業者・山本爲三郎さんが、大礼記念国産振興東京博覧会(1928)に展示したパビリオン『民芸館』を買い取り、三国の自宅へ移築した通称『三國荘』。この建物がじつはいまも三国に残されていることを知り、確認したいとずっと思っていた。
書籍『民藝運動と建築』によれば、東京へ拠点を移すとき『三國荘』を含め自宅を売却したが、記録によれば戦災で焼失したことになっていた。戦後柳宗悦さんが山本さんと疎遠になったせいで、民藝関係者が『三國荘』を訪ねることもなくなり、なきものとされてしまったとか。
場所の手掛かりは商店街のfacebookに書かれていたので、そのあたりをストリートビューで確認したところ、趣きのある日本家屋が建っているのはここだけだった。

奥の方は高いブロック塀と樹木のせいで様子を窺えないが、手前の方は目近に確認できた。
妻面が小屋組現しになっているが、『民藝運動と建築』や『三國荘展』図録に掲載の写真も同じ意匠。Google Earthの3Dで別の妻面が見られるが、こちらも小屋組現しになっている。もうひとつ左右の軒の出が異なる部分も同じなので、この建物が『三國荘』ではないのだろうか。

商店街より見る。質屋さんのようだが、『三國荘』より新しく見えるので、もともとこの場所にあった『三國荘』に増築したのだろう。ということは、この場所に山本爲三郎さんのご自宅があったということか。そうであれば、『三國荘』を移築したのは1928年だそうなので、1世紀ものあいだこの場所に建っていたことになる。どうか末永く保存されますように。