駒形克己さん

舟越桂さんが亡くなった同じ日に、大好きな方がもうひとり亡くなっていた。駒形克己さん。70歳。インスタグラムに病室でのお姿が投稿されていたので、白血病を再発されたのだろうかと心配していたが、昨日突然訃報を受けた。『GALLERY KOMAGATA』のSNSでは4月1日に公表されていたが、閲覧が疎かになっていたので知るのが遅くなった。
改めてSNSを閲覧すると、出版社や書店、図書館、そして大勢の人からのお悔みが投稿されていたが、その中に大阪で開催中の展覧会『駒形克己展 POP SCOPE』を見つけた。

会場は江坂の『RINEN』。洋服屋さん併設のギャラリーのようだが、地図アプリを見てハッとした。クレヨンハウス大阪店の隣だった。現在のクレヨンハウスのロゴは駒形さんのデザイン。私もはじめて駒形さんのしかけ絵本を購入した店はクレヨンハウスだった。
展覧会はクレヨンハウスの主催だった。3月23日から31日までの会期だったが、駒形さんが亡くなってしまったので、洋服屋さんの計らいにより1週間延長されたそうだ。

床まで白いホワイトキューブに、彩り豊かな駒形さんの作品が映えていた。壁には直筆サイン入りの『POP SCOPE』シリーズと『PIECES』シリーズ、そして『PIECES』をタペストリーにしたものが掛けられ、テーブルには著書やグッズが並んでいた。右上に見切れているモビールが欲しかったが、うちの2.5mの天井では様にならないので我慢した。

先代の社長さんと少し話しをさせていただいた。このスペースは普段メンズの売場だそうで、イベントがあるたび商品や什器を中2階へ移動させるそうだ。大変だが、普段と異なるお客さんが来られるので、その方たちと話しができてよいのだとおっしゃっていた。
テーブルが素敵だったのでたずねると、シェーカージャパン製だそうだ。シェーカー家具がお好きだそうで、ほかにも置いてあった。シェーカージャパンは店を閉じてしまったが、ウェブサイトは残っているとおっしゃったので訪問すると、お気に入りのウェブサイトだった。

画像でしか見たことのなかった『POP SCOPE』シリーズ。実物はどれも素敵だった。紙の重なりや立体感が見る位置によって変化するのが面白かった。たとえばマンドリルの特徴である鼻の赤い部分と青い部分。作品では青い部分は紫を用いているのだが、赤と紫の紙が顔のベースであるグレーの紙の下に見え隠れする。その様がセクシーでゾクゾクした。
全44種のうち23種が展示されていた。社長がおっしゃっていたが、トラが一番人気だそうだ。税込44,000円(トラ、シマウマは49,500円)は目玉が飛び出るほどではないが、うちには美しく飾る部屋がないので見送り。注文すれば制作してくれるそうなので急ぐことはない。

土産の『とっくん』。『ごぶごぶ ごぼごぼ』以来の『こどものとも0.1.2.』だそうで、2月に出版されたばかりのようだ。『ごぶごぶ ごぼごぼ』は胎児がお母さんの胎内で聞いていた水の音をイメージしたそうだが、『とっくん』は胎内で聞いていたお母さんの心臓の音や、生まれてからも抱かれるときに聞いたさまざまな心臓の音をイメージしたそうだ。

店の前の江坂公園。満開の桜と陽気のおかげで大勢の人が集まっていた。

帰りにジュンク堂大阪本店へ寄ったが、そういえばと永楽町スエヒロ本店の前を通った。
解体ははじまっていたが、仮囲いが国道2号側にしか設置されておらず、建具が撤去されたメインエントランスからは屋内の解体作業が丸見え。安全上問題ないのだろうか。

こちらは大阪丸ビルの解体。フジタ施工。親会社である大和ハウス工業が施工しないのは、このビルを設計施工したフジタ(旧フジタ工業)に敬意を表してのことだろうか。

蛇行剣

いつも静かな奈良県立橿原考古学研究所附属博物館が賑わっていた。2023年1月25日に富雄丸山古墳から出土した蛇行剣のクリーニングが終了し、次の処理が行われるまでのあいだ特別に展示されている。先週土曜日より1週間の限定。それは賑わうに決まっている。

平日のどこかで訪れるつもりだったが、昨夜『忠内香織の奈良ガイド』にアップされた投稿を聞き、すぐに見たくなった。水曜日だったが、雨降りなのでまだましだろうと踏んだ。
空いている時間が読めないので、開館時間の9時を目指した。10分前に着くとすでに列ができていたが、大した人数ではなかったのでひと安心。Xには1時間待ち、2時間待ちと書かれていたので覚悟していたが、蛇行剣が展示されている部屋まで45分だった。

エントランスの天井は三角ポリゴンを用いたドーム天井だった。乃村工藝社の仕事だそうだ。これまで天井を見上げたことは一度もなかった。行列のおかげ。

ホールに入ると列は3つに分かれていた。左から65歳以上、一般、JAF会員。一般は400円だが、JAF会員は会員証を見せれば350円だそうだ。チケットを購入し、右奥の通路へ進んだ。

列は続く。正面奥の特別展示室に蛇行剣が展示されている。左奥には常設展示室の入口があり、この通路は両展示室へ誘う導入部分なのだが、来るたび思う。なぜ明るくしないのだろう。展示室の入口をわかりやすく装飾し、導入部らしい空間づくりをすればよいのに。

蛇行剣。刃の部分が蛇のように屈曲している。これは6回屈曲しているそうだ。剣身長は237cm、鞘長は248cm、把(つか)から石突までの総長は285cmもあるそうだ。
展示室では壁面ガラスケースに沿って時計回りに進んだ。出土時からクリーニング終了までの過程が写真で紹介されていて、最後に蛇行剣が展示されていた。入室に制限がかけられていたおかげで、コンベア状態にならずにゆっくり見ることができた。

把部分は木製で、左から楔型把頭、把間(つかあい)、把縁突起、鞘口だそうだ。黒い部分は黒漆だそうで、1,600年経っても消滅していないことに感動した。X線CTスキャンによれば、鞘の樹種はホオノキと同定されたそうだ。

白い部分はウレタンで、緑の部分はシリコン樹脂だそうだ。ウレタンは断熱材の一種だと言っていたので、建築材料にある発泡ウレタンフォームを用いたのだろう。液状なのでどのような形状にも流れ込み、発泡して膨らみ、10分で硬化。カッターで切れるので除去も楽。

先端部分。中央の膨らんでいる部分が鞘尻で、その右側が石突。これらにも黒漆が塗られているそうだ。左側の先端が丸くなっている部分が剣先。

土産は高松塚古墳の石室壁画『女子群像』が描かれた野帳。前に飛鳥宮が描かれた野帳を購入したが、そのときにはなかったように思う。新作だろうか。

玄関を出ると行列はなく、整理券が配られていた。雨中の行列を申し訳ないと考えたのだろう。でも周囲には何もなくここで待つしかないので、増えてくればピロティからあふれ、結局傘をさすことになるのではないか。と余計なことを考えながら博物館をあとにした。

DUNE リバイバル上映

109シネマズ大阪エキスポシティを訪れた。来月の『DUNE デューン 砂の惑星 パート2』公開を前に、全国のIMAX劇場でパート1がリバイバル上映されている。
ソフトを購入していないので見るのは久しぶりだったが、おかげで初めて見た時のような興奮と感動を味わうことができた。これぞフルスクリーンサイズのIMAX劇場のための作品。
エンドロールが終わったので、上着を着て席を立とうとすると、再び映像が流れ始めた。上映前にティモシー・シャラメとゼンデイヤがスクリーンに登場して、「上映後にパート2の特別映像があるのでお楽しみに」と言っていた。尿意を我慢していたのですっかり忘れていた。
映像は10分程度だっただろうか。尿意を忘れてスクリーンに見入った。予告にないカットがたくさんあって、ポールが初めて砂虫にまたがる場面を通しで上映してくれた。
映像が終始フルスクリーンサイズだったが、パート2は全編IMAXカメラで撮影されているそうだ。それはつまり全編通してフルスクリーンサイズで上映されるということだろうか。だとすれば映画館選びに迷わなくて済む。109シネマズ大阪エキスポシティのIMAX劇場一択。願わくば日に一度、いや週に一度でよいので、パート1+2の特別上映回を設けてはくれまいか。
帰りは阪急千里線に乗ったが、南千里駅で止まってしまった。京都線で人身事故が起きたそうだ。地図アプリを見ると真西に桃山台駅を見つけた。ルート検索をすると徒歩15分だったので降りた。30分は止まるだろうと予想したが、1時間半も止まっていたそうだ。

牡丹靖佳と織田有楽斎

市立伊丹ミュージアムを訪れた。一昨年にリニューアルオープンされたそうだが、リニューアル前は伊丹市立美術館だった。受付で変更理由をお聞きすると、市役所の建て替えに伴い市立博物館がこちらへ移転してきたそうで、それで美術館はやめてミュージアムとしたようだ。博物館は美術館のある北棟と旧家住宅のある南棟の間に増築して設けられていたが、久しぶりに訪れたので前の歩道を歩いていてもまったく気がつかなかった。

お目当ての展覧会は『牡丹靖佳展 月にのぼり、地にもぐる』。牡丹さんのことは松家仁之(まついえまさし)さんの小説『火山のふもとで』の装画で知り、それ以来注目しているのだが、作品は見たことがなかった。後述するギャラリーでは個展をされていたようだが、情報を拾えず逃していたので、Googleアラートにお名前を登録。数年経ちようやく本展の情報が届いた。

美術館に変更はないそうで、エントランスホールのこの壁も変わっていなかった。開催中の展覧会にまつわる掲示をするための壁。牡丹さんの直筆によるイラストが描かれていた。

a little confusion(2015)。展示室に入る前から目を引いていた黄色。『火山のふもとで』の装画かと思ったが、家へ帰って確認すると、色合いがまったく異なっていた。全作品撮影可能。

フウア=シュシュ(2002)。牡丹さんは1971年生まれ。19歳でアメリカへ渡り、ニューヨークで絵画を学び、1997年に帰国。帰国後は日本美術の面白さに目覚めたそうで、この作品にはそれが表れている。日本料理を営む家に生まれたので、日本文化や美に対する素養は備わっていた。外国で7年暮らしたおかげで、客観的に日本を見られるようになったのだそうだ。

たまのりひめ(2006)絵本原画。ロビーに絵本の実物が置いてあるので読んでみたが、独特の言葉遣いや節回しが面白い。購入したいと調べたが絶版。本作にも日本絵画の影響が見られる。

waterfall(2015)。1枚づつつぶさに見たあと、引いて見るとキャンバスそのものが滝だった。

house with red door(2018)。牡丹さんの絵の特徴は絵の具の垂れ。わざわざ描いているものもあるそうだが、それにしても垂れにはどのような意味があるのだろう。

night festival(2015)。白い部分は葉の落ちた樹木。スウェーデンでレジデンスをしていた時、森をさまよった経験があるそうだ。渡航も同じ年なので、向こうで描かれた作品だろう。

右:兎夜(2023)。牡丹さんの絵は明清色、暗清色、濁色と色相を意識してしまう。

おうさまのおひっこし(2012)絵本原画。『火山のふもとで』の次に手に入れた牡丹さんの作品。カヴァー画の荷物の細密さに驚き、リアルな物事も描かれるのかと感心した。

まどい(2012)。キャンバスはリネン。布地の地色で表現された背景。

garden(2015)。少しづつ異なる3枚。大判なので迫力がある。牡丹さんの絵の特徴は塗りつぶし。マッキーやコピックの広いほうで塗りつぶすような描き方をされる。

W(THAWW)(2017)。thawは英語で雪解けという意味だそうだ。雪に埋もれた生物の死骸や植物は、雪が解けると再び姿を表すが、元の姿は留めていない。移ろいゆくものの儚さや不確かさを描いた5点シリーズだそうだが、展示はこの1点のみ。ほかの4点も見たかった。

たびする木馬(2022)絵本原画とブランの模型。模型のことは出版社のウェブサイトにある絵本の制作日記で知っていたが、その実物を見られるとは思っていなかったので嬉しい。

日本庭園を作庭したのは、重森三玲さんの息子の完途(かんと)さん。阪神淡路大震災のときに荒れてしまったそうだが、孫の千靑(ちさを)さんが手直しをされたそうだ。
増築部分に面する庭がカラーコンクリート舗装に改修されていたが、なぜこのようなことをしたのだろう。がっかりした。千靑さんはご存じなのだろうか。

2階へ上がる階段から向こう側が増築部分。階段の手摺が折れているのは、1段目の広い踏面に合わせてのことだろう。段の寸法を変えるのはよくないが、納まり上やむを得なかったのだろうか。丸鋼を立て並べたり、ささら桁を両端ではなく中央に4枚並べたりとうるさい意匠。

地下フロアも変わりなかった。めいわくなボール(2020)絵本原画と、8点の作品が組み合わされた展示。中央にある暗色の作品2つはカーペットの模様。夜中に自分の足が見えないほどの暗がりなのに、カーペットの模様が見えるのはなぜだろうとキャプションに書かれていた。

左:おいかける人(花束)(2023)。右:おいかける人(ドライフラワー)(2023)。常設展示のブロンズ像『剣を持つ兵士』を見て制作。剣を振りかぶり駆けだそうとする姿が可愛らしく見えたそうで、剣の代わりに花を持ち、誰かに想いを伝えようとする男を描いたそうだ。

Annonciation(2021)。『受胎告知』の場面から聖母マリアだけを描いたそうだが、体の向きから大天使ガブリエルの方かと思った。背中に羽根が生えてあるようにも見える。

図録を購入しようとショップの方へ歩いていくと、展示室がもう1つあることを忘れていた。
プルートの呪いのための習作(おばけ)(2014)。テンペラ作品。オランダで学ばれたそうだ。テンペラは卵が臭うそうだが、自然農法のものに変えると臭くなくなったそうだ。

兎月夜(2023)。60号12枚・横5.8m×縦2.6m。展覧会のキービジュアルにもなっている大作。
以下はキャプションの引用。

満月の夜
月の影に飛び込んだ兎が月にのぼる
月にのぼった兎は命を失う
けれど、兎はおどる
月の光に照らされて、新しい命が生まれる

地上と天空
現実と虚構
現世と死後
物質とイメージ
それらの相反する世界が行ったり来たり
ゆるやかに映ろう

図録は20cm×20cm、80ページ、糸かがり綴じで2,640円。物価高とはいえ高い値つけ。ちなみに、2021年に竹中大工道具館で鑑賞した『Philippe Weisbecker Inside Japan』の図録は、20cm×21cm、142ページ、無線綴じで1,700円だった。

天満の大阪アメニティパークにあるアートコートギャラリーを訪れた。ここでも牡丹さんの個展が開催中とのことだったが、展示作品は3点のみ。画像で右側のガラスの奥に2点、左側のガラスの奥に1点という不思議な展示。こちらは牡丹さんの契約ギャラリーのようなので、販売を目的にした展示なのだろう。テーブルに価格表が置いてあり、50万や30万の数字が見えた。想像より安価だったが、先立つものがなければ飾る部屋もない。でも牡丹さんの絵なら飾ってみたい。
暖房が効き過ぎて暑かったので、早々に退散して造幣局へ向かった。敷地の中に建つ与力役宅門のそばに、織田有楽斎がつくった茶室の沓脱石が残されているそうで、一昨年如庵を見学した時にガイドの方がおっしゃっていた。天満へ行くことがあれば見学したいと思っていた。

途中ギリシャ様式とコロニアル様式の建物が並んで建っていた。どちらもむかし造幣局にあったもので、国重文に指定されているそうだ。ギリシャ様式の方は、金銀貨幣鋳造所の玄関部分だけを切り取り、後ろに建物をつけ足したそうで、昔は桜宮公会堂として、現在は結婚式場として使われているそうだ。コロニアル様式のほうは応接所として建てられたそうで、名前は明治天皇がつけた『泉布観』。泉布とは貨幣のことで、観は館のことだそうだ。

造幣局の正門で受付を済ませ、向かったのは造幣博物館。「桜の通り抜け」に面している。古い様式のファサードは、この場所に実在した火力発電所。1871(明治4)年の創業時から蒸気が動力だったが、効率のよい電気へ切り替えるため、1911(明治44)年につくられたそうだ。
博物館を観覧し、そのまま敷地の中を通って与力役宅門へ行こうと考えていたが、カラーコーンとバーで先へ進めなくなっていた。博物館の受付でたずねると、いったん敷地の外へ出て、西側にある3号門から入らなければならないとのこと。博物館は1、2階は面白かったが、3階はさして興味のない記念コインのオンパレード。初めて見たカラーコインはおもちゃのようだった。
受付でいただいた「造幣局周辺史跡図」を見ながら進んだ。正門を出て左折、『大塩の乱 槐(えんじゅ)跡』碑の前を通過、天満橋筋の1つ手前の道を南下、堀川小学校を通り越し左折、3号門を抜け左折、その次も左折。数字の6をなぞるコースだった。

与力役宅門。朽ちてしまったのか駒札がなかったが、ネットに残る写真の説明によれば、天満与力にあった中嶋家の役宅門で、大正時代末期に移されたそうだ。2000(平成12)年に改築されたそうなので古色は感じられなかった。軒瓦や鬼瓦には中嶋家の蔦紋が彫られていた。

門の前には『東北園』と彫られた石碑。正しくは『東北園倶楽部』のようで、1884(明治17)年につくられた造幣局の福利厚生施設だそうだ。1つ上の画像で与力役宅門の奥にある建物がそれだが、この建物で3代目くらいだろうか。門柱の木札には『桜クラブ』と書いてあった。

いただいた史跡図によれば、沓脱石は門の向こう側にあった。門は閉じていたが、潜戸を押すと開いたのでお邪魔した。図の通り右を見ると、植込の所に石群と白い説明板があった。
同じ様に黒ずんでいたが、燈籠を含めすべての石が関係しているのだろうか。それとも、沓脱石なので右の長い石がそれなのだろうか。説明板はその石のそばにあった。
関ケ原の戦いの後、織田長益はこの辺りに居を構えた。すでに有楽斎を名乗り茶道を嗜んでいて、屋敷には茶室が設けられた。沓脱石はその茶室に設えられていたものだそうだ。
犬山の有楽苑では『元庵』という名称で復元されているが、石のそばにある説明板では『如庵』と記されていた。間違いではなく、『元庵』の元の名称は『如庵』だったそうだ。後に京都の正伝院に設けた国宝『如庵』は、命名上2代目『如庵』ということのようだ。

与力役宅門の北側にある『洗心洞跡』碑。この場所に大塩平八郎の私塾である『洗心洞』や自宅があったそうだが、大塩平八郎の乱ではその自宅に火を放ち決起したそうだ。
背後に写るのは共同住宅。住んでいないようだったが、3号門前の共同住宅は現役のようだし、「桜の通り抜け」のほうには高層の共同住宅があるようだ。社宅なのだろうが、これほど職住近接しているのは珍しい。もしかしてセキュリティ上敷地の外に住めないのだろうか。

素形

伊勢詣。今年は神宮参拝を午前中に済ませ、午後は鳥羽にある『海の博物館』を訪れた。
昨年内藤廣さんの展覧会でインスタレーションを見て気がついた。伊勢から鳥羽までは特急で15分。毎年特急券つき『伊勢神宮初詣割引きっぷ』を利用するが、使わずに捨てているフリー区間用特急券を使うことができる。問題は鳥羽駅からの足だが、調べると路線バスが走っていた。前に訪れた時はレンタカーだったが、おそらく路線バスは走っていなかった。

途中のバス停で車窓から見えた郵便ポスト。東京オリンピックで金メダルを獲得した選手ゆかりの地にあるポストを金色にする『ゴールドポストプロジェクト』だそうだが、選手は喜んでいるのだろうか。立案者と関係者が喜んでいるだけではないのだろうか。
そういえば東京オリンピックは2020だったので、今年は次のオリンピックの年。3年半何をしていたのだろう。コロナ渦中の時間はブラックホールに吸い込まれてしまったようだ。

バス停からのアプローチ。細かいピッチで短冊状に目地を切るだけで、コンクリート舗装の表情が豊かになる。赤い扉は搬出入口だろうか。収蔵庫の黒い扉も同様だが、美術家が制作しているそうだ。木枠に鉛板を張り、樹脂系特殊塗装を施してあるそうだ。

玄関庇。右は展示棟A館、左は2003年に増築されたというカフェ。前に訪れた時はなかった。これも内藤さんの設計だそうなので、帰りにコーヒーでもと思っていたのだが、予定していた2時間では鑑賞できず、最後は早足となってしまった。当然店へ入る時間はなかった。

応力に沿って配置されたという庇のリブが、蜘蛛の巣やアンモナイトに見えて面白い。
カフェ店内に見えた石積みの壁に違和感を覚えたが、帰宅後写真集を見て理解した。カフェが建つ所に元々のアプローチがあった。石積みの壁はアプローチに沿ってつくられた石垣だった。壊せばお金がかかるので、石垣を残しその上に小屋組を設けたのだろう。アプローチの位置が変更されたので、庇の柱と展示棟A館の間にあった石積みの低い仕切りは撤去された。

展示棟A館。日本人は古代より海の民として生きてきたとし、神宮、信仰、祭り、遺跡、汚染などについて展示している。手前の魚はすべて模型。種類の多さに驚いた。

手摺のつくりが面白い。笠木はフラットバーだが、支柱は異形鉄筋を2本立て、ナットを挟み溶接し、ステンレスワイヤーを通している。コーナー部分はL字に3本配置していた。

トップライト端部。2本の円筒は排気ファン。夏場の熱気抜きだろうか。石油ストーブが置いてあったので、エアコンは設置されていないのだろう。コートを着たまま鑑賞したので寒さは感じなかった。これでよい。昨今の公的空間は暖(冷)房が効きすぎている。
エアコンがなく、換気も自然換気なので、光熱費は年間400万円程度だそうだ。他を知らないのでピンと来ないが、同規模で公共の博物館では10倍はかかるだろう、とは初代館長の弁。

客用トイレ。扉を開けて驚いたが、すぐに慣れた。ハードな見た目だが清潔にされていた。
収蔵庫の竣工は1989年、展示棟は1992年だそうなので、バブル景気に湧いていた頃。建築も坪単価200万円がざらにあったそうだが、この施設は収蔵庫が42万円、展示棟は55万円だそうだ。バブル建築に反発し安く上げたわけではなく、ただ予算がなかったそうで、設計期間中の初代館長の口癖は「金がない」。そのくせ要求が多く苦労されたそうだ。
でも苦労は苦労に終わらず、日本建築学会賞作品賞や吉田五十八賞をはじめ、数々の賞を受賞する建築として結実した。収蔵庫の構造体が組みあがった頃、現場へ幼い娘を連れて行ったそうだが、よちよち歩く姿を見て、建築をやってもいいかと初めて思ったそうだ。

外観。左にエントランスキャノピーやカフェが見える。屋根は金属板ではなく桟瓦。塩害対策だそうだ。外壁は厚さ32mmの杉板を縦横二重に張り、タールを塗装してあるそうだ。
軒樋の端がもげていた。展示棟B館のほうも同様だったが、修繕しないのだろうか。トップライトの天幕も見えないが、外してしまったのだろうか。上述の通りお金がなかったので、天幕は内藤さんの持ち出しで設置されたそうだ。さらし50反を購入し、内藤さんの奥様が友人と縫い上げたそうだ。奥様の著書『建築家の考えた家に住むということ』に書かれている。

展示棟B館は、伊勢湾や熊野灘での漁、海女、木造船について展示している。

ボリュームや構造体はA館と同じだが、2階の範囲が異なっている。こちらはまったく2階のない部分が広くあるので、構造体をよく見渡すことができる。アーチが船の竜骨のようだが、発想の源は初代館長と訪れたスミソニアン自然史博物館で見た蛇の骨格模型だそうだ。

トップライトや照明の光に浮かぶ構造体が美しい。初代館長は窓のない建物を望んだそうだが、内藤さんは光熱費削減のためには必要と説いたそうだ。結果窓はついたが、初代館長は納得していなかったようで、『建築ジャーナル』のインタビューに妥協した1つと答えていた。

外観もA館と同じだが、開口部の位置が異なる。前に訪れた時の状態を覚えていないが、手前の「ばかうけ」のようなオブジェのある部分、石がゴロゴロしている部分には水が張られているそうだ。現在も張られているそうだが、常時は取りやめ、繁忙期限定だそうだ。

収蔵庫棟外観。切妻屋根のボリュームが3つ。右の部屋には網、布、紙、左の部屋には桶、樽、籠、漁具、奥の部屋には船が収められているそうで、奥の部屋のみ公開されている。
収蔵庫と後述する2棟にはモダンな鬼瓦が載ってあるのだが、収蔵庫は破風板の拝みに懸魚までついている。真面目なのか洒落なのかわからないが、不思議と違和感はない。

収蔵庫はプレキャストコンクリート・ポストテンション組立工法。外壁版を立て、屋根版を乗せ、屋根版の上に母屋、垂木、野地板を設け、展示棟と同じ桟瓦を葺いてある。
軒瓦の文様は、星印がセーマン、もう1つはドーマン。海女の魔除けだそうだ。昔は白襦袢に描いたそうだが、現在はウェットスーツなので、頭に巻く磯手拭に描いているそうだ。

エントランスホール。収蔵庫3つをつなぐ空間。こちらはRC造ラーメン構造。コーナーが丸面なので漆喰かと思ったが、写真集にはVPと記載。お金がないのでそれはそうか。

柱は十字型。鉄ではないが、ここから十字柱が始まったのだろうか。床は真砂土叩き仕上げ。スリッパに履き替え入室するのだが、通行部分にはカーペットが敷いてあった。
オーム社の図面集に書いてあるそうだが、足元の窓には給気口が仕込まれているそうだ。ガラスの下は外とつうつうになっていて、砂利の下にグレーチングが敷いてあるそうだ。

収蔵庫。点検台からの眺め。クジラに飲み込まれた船たち。あるいは船の墓場。
タイビームの下弦が取りつく梁と揃っていなかったが、展覧会の図録に収録されている断面図を見て理解した。タイビームに平行する梁に揃えてあった。あえてそのようにしたのか、照明器具のアンカーのためのフカシか。揃えたほうがよりきれいに見えたのではないだろうか。
収蔵庫なので湿度管理が必要だが、展示室同様機械式空調設備は設けられていない。床の真砂土がその役割を担っている。真砂土の下はスラブではなく、割栗石を介し地盤の上に施されているので、真砂土は乾燥することなく一定の湿度を保っているのだそうだ。

照明器具は展示棟と共通。ランプの部分は既製品で、その下にリングやディスクを自前で吊り下げているそうだ。ディスクはパンチングメタルでできていて、光を拡散していたが、照度は高くはなかった。鳥目で老眼の私はキャプションが読めなかった。
コストを抑えるための自前だそうで、1台100万円から5万円に下げることができたそうだが、それ程下がるのであれば性能や機能は等しくないのではないか。

体験学習館。1998年にできたそうなので、前に訪れた時はあったと思うが、記憶にない。収蔵庫の裏にあるので見落としたのだろうか。1階はひと気がなかったので2階へ。

特別展示室。RC柱に木製トラスフレーム。設備はこだわらず、エアコンがよく効いていた。
展示は『カツオ一本釣り漁船にエンジンがついた!はじまりは伊勢・市川造船所』。漁船にエンジンがついたのは1906(明治39)年で、その船を製造したのが伊勢にあった造船所だそうだ。その船は漁獲成績が優秀だったので、そこから一斉に漁船の動力化が始まったのだそうだ。

最後は『三重大学 伊勢志摩サテライト 海女研究センター』。1階が自由に出入りできるギャラリーとなっていて、鳥羽出身の作家による植物の写真やアート作品が展示してあった。

15倍デジタルズーム。こういう時レンズ交換式カメラが欲しいと思う。
バスを待つ間モダンな鬼瓦を撮影したのだが、拡大してみると『蘇民将来』と彫られた巴瓦がついていた。『蘇民将来』の説話は日本各地に伝わっているそうだが、この辺りでは注連縄に『蘇民将来子孫家門』と書かれた木札をつけ、説話の通り年中飾るそうだ。
他に『笑門』と書かれた木札も見かけるが、これは『蘇民将来子孫家門』の短縮形だそうだ。てっきり「笑う門には福来る」からだと思っていたが、なぜ『将門』ではなく『笑門』なのか。一説によれば、平将門の乱の後、誤解されぬよう『笑門』へ変えられたのだそうだ。