発掘調査現場

富雄丸山古墳が一般公開されているというので訪れた。出土した鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡と蛇行剣への興味もあるが、一度この目で発掘調査現場というものを見てみたかった。
最寄り駅は近鉄学園前駅。バスに乗り換えるが、1時間に1本しかないので歩くつもりだった。ところが臨時バスが出ていたので思わず乗車。それほど人が集まるのか。

行列ができていた。隣接する運動場で受付を行うということだったが、入口でパンフレットを渡されただけで、記帳などはしなかった。大勢待機できるから選ばれたのだろうか。
昨日積もっていた雪が解けたそうで、運動場全域がぬかるんでいた。あっという間にシューズが泥だらけになったが、トレッキングシューズだったので気にしなかった。

フェンスの向こう側は公園。そちら側の行列がすくと門扉を開き、ひと固まりが通された。テントの下では、過去に出土したという鰭付楕円筒埴輪や円筒埴輪が展示してあった。

公園の中も行列は続いていたが、少しづつ動いていたので気にならなかった。

公園の端まで来ると傾斜路に出た。左右ともフェンスの向こう側は古墳。右側が盾形銅鏡と蛇行剣が出土した1号墳。左側が2号墳と3号墳だそうだ。

発掘調査現場の出入口に到着。普段は入られないが、フェンス越しなら見られるようだ。

フェンス越しの風景。出入口付近で交錯するので、交互通行規制がされていた。ルートは、一旦左に折れて林の向こう側をぐるっと回り、墳頂からは九十九折りに下るというものだった。

林の向こう側でも発掘調査が行われていた。埴輪や墳丘を覆う葺石が出土していた。

墳頂の掘削部分に『墓坑』の札が差してあった。墓穴と同じだそうだがわからない。この下には埋葬施設があるはずだから『墓坑』なのか、それともすでに見つかっているのか。

九十九折り。勾配がある上に路面が滑りやすく、市職員が絶え間なく注意を促していた。

鼉龍文盾形銅鏡と蛇行剣が出土した場所が見えてきた。ルートの最後なのは演出だろうか。

出土した所に実物代わりの白い板が置いてあった。蛇行剣の下に盾形銅鏡があったようだ。
盾形銅鏡を取り上げて裏返した時の映像は、何度見ても興奮する。素人でそうなのだから、専門家の興奮度は如何ばかりだろう。会見での若い学芸員の目はキラキラしていた。

棺を粘土で覆って埋め戻した埋葬施設を『粘土槨(かく)』というそうで、白い板の手前に横たわっているのは高野槇を使った『割竹型木棺』だそうだ。竹を割るように幹を2つに割って、中をくり抜いて遺体を収めるそうだが、これがまだ実物だというので驚いた。
単管バリケードに記された『shimada』とは、埋蔵文化財発掘調査を専門に扱う島田組という土木会社だった。 発掘は考古学研究所などが主体となって、その都度掘り手を募集するものだと思っていたが、まずは島田組のような会社へ発注されるということか。

2号墳と3号墳も見学できた。2号墳からは横穴式石室が見つかったが、3号墳からは何も見つからなかったそうだ。航空レーザー測量をはじめとする調査の結果、両古墳はひとつの前方後円墳で、2号墳が後円部、3号墳が前方部である可能性があるそうだ。
以上でお終い。グラウンド到着からちょうど1時間。とても面白かった。出入口へ戻り、傾斜路を下ると道路へ出た。先のバス停にちょうどバスが停まっていたので乗車した。歩くつもりの恰好をしてきたのに結局歩かなかったが、少し動悸がしていたのでやむを得なかったとする。

動悸

高血圧のせいか脈が常にドキドキしているのだが、昨夕はこれまで経験したことのない動悸を経験した。大きくドクンと脈打った。一定の間隔で起きたり、何拍か続けて起きたりした。
胸が圧迫される感覚もあり、このまま心臓が止まってしまうのではないかと恐怖した。救急車を呼ぼうと思ったが、それも何だか怖かったので、我慢して早々にベッドへ潜りこんだ。
朝目覚めると動悸は収まっていたが、とにかく検査をしてもらおうと内科を訪れた。予約をしていないので時間がかかると言われたが、今日は何時間かかっても気にならなかった。
廊下で待つ間、『心臓弁膜症のおはなし』という冊子が目に留まったので手にすると、表紙に書かれている症状にハッとした。「胸が痛い」「ドキドキする」「息切れがする」などの中に、「足がむくむ」とあったからだ。数年前から足がむくむようになっていた。
先生にそのことを伝えると、即座に「心臓弁膜症」ではないと言われた。理由を聞いておけばよかったが、その時は聞く気がしなかった。問診だけで断言できるのだろうか。
結局、心電図検査、尿検査、レントゲン検査、血液検査を受けただけでおしまい。検査結果を見なければ何も話してくれないようだ。2週間か1か月後に来てくださいと言うので、そんなにかからないだろうと思ったら、それだけの日数をかけて血圧を確認したいようだ。記録してくださいと血圧手帳を渡された。血圧計は持っていなかったので、そのまま梅田へ出て購入した。

久しぶりにライカビル跡地の前を通ったら、何やら工事が行われていた。跡地利用はせいぜいコインパークで、10年間手つかずだったのに。大阪万博やIRに乗じているのだろうか。というのは、ここだけでなく他の複数の空地でも建設工事が行われている。まるでバブル景気。

IBMは閉鎖されてしまったようだ。サインからロゴが消えていた。先の交差点にあるサインも同様なので間違いないだろう。データセンターだと思ったが、他所に新築したのだろうか。

1400年前の絵画

キトラ古墳と高松塚古墳の壁画を観賞した。文化庁のウェブサイトを閲覧していて公開を知ったのだが、ウェブサイトから申し込みができたのでそのまま手続きを行った。申し込みは別々だったので、同じ日に続けて観賞する希望が叶うか心配だったが、どちらも第1希望が当選した。

キトラ古墳が先なので、飛鳥駅の先の壺阪山駅で下車。来るまでにひと雨あったようだ。

開館までキトラ古墳を見学。寂しいが、芝が枯れているほうが形がはっきり見える。

時間が来たので『キトラ古墳壁画体験館 四神の館』へ。エントランスのある地階へ下り、特設窓口で受付を済ませてしばらく待機。案内係の後について、階段を上ると展示室だった。
思い出した。前に来たときもその部屋へ入っていた。その時はガラスの向こうは真っ暗で何もなかったが、今日は壁画が展示されていた。南壁の朱雀だった。過去の見学会を確認すると、毎回ひと壁ずつ展示されているようで、朱雀の展示は2021年夏以来のようだ。
壁画は石材に塗り込めた漆喰の上に描かれている。高松塚古墳では石室そのものが取り出されたが、キトラ古墳では漆喰層だけが剥がされた。剥がすための工具が展示してあったが、使用方法は地階の展示室に実際の映像と共に紹介されていた。
次は高松塚古墳。前に来たときは寄らなかった、キトラ古墳周辺地区を歩いた。

体験工房。腰窓の木製ガラリに感嘆したが、その下の両引き戸の引き込み側は残念。

訪れたかった於美阿志(おみあし)神社。百済から帰化してここに居住した阿知使主(あちおみ)を祭神とするそうだが、興味があったのは境内にかつて存在した桧隈寺(ひのくまでら)。神社を取り囲むように、中門、金堂、塔、講堂、回廊のある伽藍だったそうだ。

重要文化財の石塔婆。元は十三重だそうだが、上が欠けてしまい現在は十一重。柵の範囲が広いのは、ここに塔が建っていたようなので、その大きさを示すためだろうか。

素敵な色と形の納屋。片流れ屋根の勾配が緩いのはご愛敬。

遠くに高松塚古墳。適当に築山していると思ったら、オリジナルに忠実だそうだ。

高松塚古墳の壁画は、飛鳥歴史公園館の裏にある仮設修理施設に保管されていた。建物に入るとすぐに見学通路になっていて、窓から石室のピースが並んでいるのが見えた。北壁の玄武、天井の星宿2ピース、西壁の女子群像、東壁の女子群像が窓のそばに置かれていた。保護のためか部屋が明るくなかったが、オペラグラスを貸してくれたので目近に観賞することができた。
修理施設の前につく「仮設」が気になった。史跡は現地保存が原則なので、修理が済めば古墳の中へ戻されるそうだが、そうなれば施設は無用となるので「仮設」だろうか。別につけなくてもよいと思うのだが、それでは半ばお上のような団体には許されないのだろうか。
壁画(石室)は2020年3月に修理が終わっているそうだが、いまだに古墳の中へ戻されていない。カビの再発を防ぐ技術の確立などの目途が立っていないからだそうだ。
見学の前に控室で映像を鑑賞した。1972年3月に壁画が発見されてからこれまでを振り返るものだったが、すっかり忘れてしまっていた。壁画(石室)を現地保存すると決めると、コンクリート造の保存施設が石室に隣接して設けられたが、2001年に行われた天井崩落止め工事の不手際で石室に大量のカビを発生させてしまい、壁画にもダメージを与えてしまった。
現地での修理はあきらめ、外へ出すことを決めて仮設修理施設を建設。2007年4月に石室を解体して運び込み、12年に渡りクリーニングや石材の強化などを行ってきたそうだ。
昨年3月に行われた『古墳壁画の保存活用に関する検討会』の会合では、2029年度までに新たな施設を建設する方針が示されたそうだが、やはり戻すことは困難なのだろうか。ならばキトラ古墳の四神館のような施設をつくって永久保存し、展示することにしたのだろうか。
白と水色のワンボックスカーはイベント支援会社のものだった。アンケート用紙に記入するためのスペースが屋外にあったが、テントやテーブルなどを貸し出しているのだろうか。
壁画は国宝だそうだが、どの部分が指定されているのか知りたくて、通路やテントにいた女性へ聞いてみたが知らなかった。アルバイトなのだろうと思ったが、上述の会社は人材も派遣するそうなので、彼女たちもその会社から派遣されたのかもしれない。
結局飛鳥歴史公園館の方が答えてくれた。国宝に指定されているのは、天井、西壁、北壁、東壁の4面。南壁は、盗掘穴のせいでそこに描かれていたであろう朱雀がないので指定外だそうだ。ちなみにキトラ古墳の壁画も国宝だが、こちらは南壁も含めて5面が指定されているとか。

Hwyl

先日映画館で『ラストエンペラー 4Kレストア版』を観賞したが、用意しておいた『イベント割ムビチケ作品共通券』が使えなかった。古い作品だし、料金も安かったからだろうか。
当てが外れてしまったが、チケットの有効期限は今月一杯。早く使ってしまおうと上映中の作品を調べたが、これといったものはなく、消去法で『ドリーム・ホース』にしたのだが、この作品にしてよかった。美しい馬と美しいウェールズ、興奮と感動、そして少しの笑いと涙。
生まれ持った素質と調教のおかげだろうか、すぐに頭角を現した。裕福な馬主の馬を負かすシーンは痛快で、大怪我から復帰し、最後は優勝してしまうのだから感動して当然。元気をもらった。ウェールズは歌の国だそうで、エンドロールの合唱シーンも愉快で楽しかった。
監督はユーロス・リン。主にテレビで活躍されている方のようだ。ベネディクト・カンバーバッチが出演する『SHERLOCK』が好きで観ていたが、そこでも監督をされていたようだ。
主人公を演じたのは、『シックス・センス』で男の子の母親役だったトニ・コレット。『ナイトメア・アリー』では読心術師を演じていた。会計士の妻を演じたのは、『ラブ・アクチュアリー』でスタンドイン女優としてラブシーンを演じた方だった。20年近く経つので気がつかなかった。そのシーンで相手役だったのがマーティン・フリーマン。『SHERLOCK』でワトソン博士を演じ、『ホビット』3部作でビルボ・バギンズを演じた。好きな英国人俳優のひとり。
監督をはじめキャストのほとんどがウェールズ出身だそうだ。会計士役の方はイングランドだが、父方の祖父母はウェールズだそうだ。トニ・コレットだけがオーストラリア出身。
カバーに惹かれてパンフレットを購入すると、知りたかった単語の綴りが載っていた。「儲けが目当てではなく、胸の高鳴りを求めてほしい」という印象的なセリフがあるのだが、ウェールズ語で胸の高鳴りを「ホウィル」というそうだ。公式サイトで紹介されていた。
読みが面白いので綴りを知りたかったが、公式サイトにそこまで載っておらず、ネットを検索してもヒットしなかった。それがパンフレットに載っていたので喜んだが、綴りを見てハッとした。うちにある香水の名前と同じだった。商品のウェブページに、気力や活力を奮い立たせる感覚という意味のウェールズ語だと書いてあった。でもこちらの読みは「ヒュイル」。

ユキヒロさん

教授の真似をした。ニュースでは心境を表すグレーではないかと書いてあったが、私がイメージしたのは、ユキヒロさんが好きだったトム・ブラウン。グレーの似合う方だった。
高橋幸宏さんが亡くなった。信じられなかったが、夕方に公式発表があった。11日に亡くなっていたそうで、死因は脳腫瘍により併発した誤嚥性肺炎。享年71歳だったそうだ。
ユキヒロさんを知ったのは、おそらくご多分に漏れずYMO。叔父がレコードを持っていて、家へ行くたび聴かせてもらった。それ以来、THE BEATNIKS、サディスティック・ミカ・バンド、スケッチ・ショウ、HAS、HASYMO、pupa、METAFIVEと聴いてきた。もちろんソロも。
ユキヒロさんのドラムが好きだった。後にDVDで観ることになったデビュー翌年のLA公演。エネルギッシュで、タイトで正確な演奏に見入ってしまった。WOWOWで観たLOVE PSYCHEDELICOのライブも印象深かった。ユキヒロさんがドラムを叩いているのだが、なんでも『WORLD HAPPINESS』で共演し、幸宏さんの演奏に惚れ込み、『LADY MADONNA』を幸宏さんが叩いたらどうなるだろう、とラブコールを送ったそうだ。
ユキヒロさんのファッションが好きだった。中折れ帽、3ピース、ブレザー、蝶ネクタイ、チルデンセーター。LOVE PSYCHEDELICOのライブでは、キャスケットを被り、燕尾服のような3ピースだったが、誂えたのだろうか。ご自身のブランドを展開していたし、YMOやpupaでは衣装をデザインした。ファッションに無頓着だった教授を目覚めさせたのはユキヒロさん。

良弁杉由来

昨年末はじめて狂言を観賞したが、今度ははじめての文楽。国立文楽劇場を訪れた。
先日東大寺の開山堂を訪れたとき、写真のポスターと同じチラシが置いてあった。赤い法衣が印象的だったので1部頂き、帰りの車中でハッとした。『良弁杉由来』の良弁とは、開山堂に鎮座していた国宝良弁僧正坐像の良弁のことだった。無知なので気がつかなかった。
良弁が東大寺を開山して今年で1,250年経つそうで、10月には御遠忌法要が営まれるそうだ。本作はこれに因んだ上演のようで、あらすじも面白そうだったので鑑賞することにした。

すっかり忘れていたが、設計は黒川紀章さん。外壁から突き出た部分は櫓太鼓をイメージしているそうで、笠木は唐破風、猪目の窓に文楽の文字。夜は明かりがつくのだろうか。
二丁掛タイル(225*60)で覆われた外壁は黒一色で、国立民族学博物館を彷彿とさせる。白目地が鮮やかだったが、外壁改修をして間がないのだろうか。全体がピカピカしていた。

エントランス庇にも唐破風。朱が効いている。ルーバーは竹矢来のイメージだそうだ。

定式幕の上ににらみ鯛と大凧。恒例の正月飾りだそうだ。大凧の卯の文字は、『良弁杉由来』に因み東大寺別当が揮毫したそうだが、毎年社寺の方に揮毫してもらう慣習なのだとか。
はじめての文楽はとても面白かった。所作が美しかった。拍子木が鳴り、定式幕がスルスルと横へ開き、盆が回転して太夫と三味線が登場する。太夫の語りに圧倒された。床から遠い席だったがよく聞こえた。昔の言葉だし、独特の節回しなので台詞がよくわからなかったが、舞台上部に字幕が出ていたし、イヤホンガイドの解説と合わせて不自由しなかった。
席が4列目だったので肉眼で十分だったが、持参した双眼鏡を覗くと人形のディテールまでよく見えた。人形遣いもよく見え、人間国宝と若手とのキャリアの差がよくわかった。
作品もよかった。渚の方の舞や、幼い良弁を連れ去る鷲の迫力、桜の宮の段における桜の演出。二月堂の段では、親子だとわかり号泣する渚の方につられこちらも涙した。
狂言は短かったが、こちらは4段仕立てで2.5時間。途中トイレ休憩もあった。

劇場出入口扉の把手は、桂離宮新御殿一の間の襖につく月の字引手を模したもの。黒川さんはどういうつもりでこの意匠を採用したのだろう。単なる思いつきだったのだろうか。
観劇後、献血のために天王寺へ。難波や心斎橋のほうが近かったが、予約が取れなかった。天王寺の献血ルームは新しく、明るいインテリアは悪くなかったが、鉄道模型のジオラマや、動物のイラストやオブジェなどは必要だっただろうか。誰に向けた施設なのかと思った。
そんなことを思ったからか、献血できなかった。脈拍が100を切らなかった。外出すると脈が速くなるのはどういうわけなのだろう。抗不整脈薬なるものがあるようだが、服用すれば献血できないようだ。降圧薬は問題ないのになぜなのだろう。薬の成分がよくないのだろうか。
前回もらったダブル献血のチラシを見て、はじめて成分献血をするつもりだった。400mlの全血献血は年に3回までしかできないが、成分献血は血小板や血漿しか取らず、赤血球は体内へ戻されるので、年に24回までできるそうだ。組み合わせればより貢献できると張り切っていた。

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