花まつり供養会

浄土寺の塔頭歓喜院のツイートに目が留まった。『花まつり供養会』という法事が行われるそうで、普段は閉じている国宝浄土堂正面の扉が開くそうだ。文章が理解できず、お堂へ入れてもらえるかどうかわからなかったが、扉が開いた状態だけでも見てみたいと訪れた。

普段はひっそりしている浄土堂が、この日は何だか華やいで見えた。曇り空も一役買っているのだろう、褪せた部分はトーンを落とし、扉の鮮やかな朱色が際立っていた。

中央扉の前に花御堂が置いてあった。釈迦の誕生日は4月8日とされているが、旧暦なので、月遅れのこの日に灌仏会(かんぶつえ)を行う寺院もあるようだ。こちらでは、檀信徒の供養会と合わせて年中行事とされているようだが、浄土堂に礼服姿の方が大勢いる風景は新鮮だった。
中を覗くと、阿弥陀三尊の前で僧侶が読経をしていた。複数の焼香台と、胡坐(あぐら)などの椅子がたくさん並んでいた。左扉のほうに檀信徒、右扉のほうに一般供養の受付があった。供養が済むと、経木塔婆を受け取り、浄土堂の正面にある地蔵菩薩の前で水向けをしていた。
一般供養の受付に話すと入れてもらえたので、邪魔にならないよう端に座った。正面から光を受けた堂内や阿弥陀三尊は、普段とは異なりはっきりとくっきりと拝観することができた。

軒丸瓦と軒平瓦に南無阿弥陀仏の文字。他では見たことがない。何か謂れがあるのだろうか。
次の目的地は生石(おうしこ)神社。ようやく訪れることができる。ルートを検索すると、神戸電鉄はダイヤが合わなかったのか、小野市役所まで歩き、らんらんバスに乗り、JR市場(いちば)駅へ行くルートが一番のようだったが、JRへの乗換時間が5分しかないので心配だった。

バスは時間通りに市場駅に到着。でもJRが遅れていた。1時間に1本のダイヤでなぜ遅れるのかわからなかったが、出発してすぐに理解した。徐行運転をしていた。線路盤に相当の雨水を吸い込んでいるとのことだが、徐行するほどなのだろうか。JR西日本はすっかり臆病になった。

JR宝殿駅から少し進んだ交差点。遠くに見える山が生石神社のある宝殿山だが、これほど長く抜けのよい直線は初めて。県道393号だそうだが、1947(昭和22)年の空中写真でも変わっておらず、田畑のなかを一直線に結んでいる。宝殿駅は1900(明治33)年、国鉄の前の山陽鉄道の時代に開業したそうだが、この道路は鉄道利用の参詣者のためにつくられたのだろうか。

生石神社が見えてきた。遠景を撮影したいが道路からでは角度が悪いので、神社に正対する運動公園に入った。地図アプリを見ながら体育館まで来ると、植込に「ブライダル都市・高砂」の標識。ハッとした。新郎新婦のいる雛壇を高砂というが、この地のことだった。結婚披露宴で謡われる『高砂』が由来だそうだが、それをつくったのは世阿弥だそうだ。

体育館に隣接する相撲場の奥へ進むと、生垣の向こうに社殿が見えた。アンテナ塔が入ってしまうが、ここが遠景のベストビューポイントではないだろうか。この後生垣を乗り越え道路へ出たが、うまい具合に樹木に隠れていた建物や電線が露わになってしまった。

県道393号へ復帰し、法華山谷川を渡ると宝殿山の麓に突き当たったが、左を見ると県道393号が続いていた。傾斜路なので、滑らないよう石を荒く並べた舗装になっていた。

しばらく進むと鳥居が現れたが、何だかみすぼらしかった。手入れが行き届いていないように見えた。石段は100以上ありそうだが手摺がない。表参道は別にあるのだろうか。
右の石には「違い矢」、左の石にも「三本矢」が彫られていた。元々1つの石として竜山の山腹にあったが、砕石作業で崩れ落ち割れてしまい、ここへ移されたのだとか。
石の謂れは不明だそうだが、あるブログに書かれた考察では、竜山石が藩の専売品となった記念に、家老河合寸翁の功績を称えつくられたのではないか。河合寸翁とは、木綿や竜山石などの専売で利益を上げ、藩の負債完済を成し遂げた偉人で、河合家の家紋は「鷹の羽」だそうだ。

2/3ほど上ると道路と交差した。県道392号だそうだが、393号共に何だか面白い。上部の建物は展望施設のようだが、『播磨国石寳殿社真景』という古絵図では拝殿と書かれている。

石段を上りきった平場。右が拝殿で、左は前殿、その奥が本社。『播州名所巡覧図絵』という古絵図に前殿は描かれていないので、後に建てられたのだろう。それなら拝殿は正しいのか。
前殿は割拝殿の形式になっていた。本社も、中央は奥にある石宝殿へ進むための通路になっていて、その両側に大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二柱が祀られていた。

石宝殿と呼ばれる巨石。ご神体だそうだ。幅6.5m×奥行5.6m×高さ5.7m、重さは推定465t。足元には雨水が溜まった池。その周りを歩けるようになっていた。奥に見えるのは本社。
上述の二柱がこの地に石の宮殿をつくろうとしたが、未完成のまま夜が明けてしまったので、二柱はそのままこの地に鎮座することになった、というのがこの神社の延喜で、実際のところは、形状からして石棺をつくっていたのではないか、という説が有力とのこと。

本社の横には山上公園登口。床面はどこも岩盤。階段も岩盤を加工してできていた。

石宝殿を囲うように玉垣が並び、その周りを歩くことができた。石宝殿は、江戸時代に隣の竜山と共に名所として名を馳せたそうで、シーボルトも参詣したようだ。著書『NIPPON』に図版が掲載されている。歌川広重は『山海見立相撲』に、播磨龍山として描いている。

背面より石宝殿と本社を見る。先に広がるのは播磨平野。少し振れるが、180km向こうに神宮がある。登口に神宮大麻ののぼりが立っていたので、興味を覚え調べてみた。

山上公園。一面の岩盤と東屋。石碑には「大正天皇行幸之跡」の文字。ここから軍事演習を観閲するために登ったそうだが、皇太子の頃だったそうなので、記述は正しくない。

帰りは反対側から下山。遠くに見える山が竜山で、白い岩肌は昔の採石の跡だそうだ。
竜山石の歴史は古く、古墳時代には有力者の石棺に、鎌倉時代や室町時代には石仏や五輪塔に、江戸時代には姫路城や明石城の石垣に、近代では吹上御苑や国会議事堂に使用されたそうだ。
2014(平成26)年に『石の宝殿及び竜山石採石遺跡』として国史跡に指定されたそうだ。

生石神社を後にし、向かったのはゴリラ岩。画像中央に、右を向いたゴリラの横顔。
現在は削除されているが、地図アプリで神社周辺を散策していて見つけた。画像が投稿されていたが、撮影場所の記載がなく、ネットを検索してもわからなかった。でも昨日改めて検索してみると、最近投稿されたブログ記事を見つけた。撮影場所やルートが書かれていた。

法華山谷川沿いを歩いていると、護岸に階段が設けてあった。メンテナンス用かと思ったがそれだけではないようで、説明板が立っていた。昔ここには竜山石を運ぶ船着場があったと伝えられているそうで、護岸を改修した際、旧水路で使用された石を用いて復元したそうだ。
よく見えないので対岸へ回った。茶色く見える部分がそのようだ。頭が出ている棒状のものは立柱石で、川を堰き止める時、板を落とすためのガイドだったそうだ。

船着場の遺構から目線を上げると、シン・ゴリラ岩があった。ちょうど同じ場所だった。
先のゴリラ岩についての投稿ページに、関連記事として挙がっていた。こちらのゴリラは左向き。顔はおろか、縦長の頭部や盛り上がった肩、体全体まで表現されていた。